2022.11.05

『殺人罪で死刑になった豚』は本当に面白くて、久しぶりににこにこと勢いよく読んでいる。元気が出る。第六章に至っては「無生物への刑罰」だ。鐘のエピソードなんかはもうこれだけで短編小説になりそう。

イワン二世の息子であるロシア皇太子ディミトリが、一五九一年五月十五日に、亡命先のウグリッヒで暗殺されたとき、町の大きな鐘が謀反の合図として鳴らされた。この重大な政治的犯行のため、鐘はシベリアへの永久追放の判決を受け、ほかの追放者たちとともにトボルスクへ運ばれた。長い間独房に閉じ込められたあと、その鐘は呪文と再度の聖別によってその邪悪な一部を清められ、シベリアの首都にある教会の塔に掛けられた。しかし、その鐘が完全に許され、もとのウグリッヒに戻されたのは一八九二年になってからであった。同様の判決が、 十七世紀の後半に人にぶつかった揚水器にたいしてロシアの法廷によって下された。

エドワード・ペイソン・エヴァンズ『殺人罪で死刑になった豚』遠藤徹訳(青弓社)p.163

序文でざっくりと整理された通り、四足獣は世俗裁判により人間と同様の身体刑を、昆虫は教会裁判により悪魔祓いや呪いを課せられるというのが中世以来の動物裁判の棲み分けのようなのだけど、通読してもよくわからず、今後べつの本に求めて行きたいと思うのは、そもそも中世ヨーロッパにおいて司法権とはどういったものだったのかということだ。近代国家のように独立した司法機関があるわけではなく、領主や司教など、土地や宗教に基づいた権力者が各々に裁判権をもっていたということなのだと思うのだけど、動物裁判においても、司法が聖と俗の合流地点になっていそうな記述がいくつもあるし、そもそも中世当時に聖と俗という区分自体が有効かどうかも疑わしい気もする。なんにせよ当時の鼠やもぐらを法廷に召喚しようとする人々の態度を、近代以降の科学思考で笑うのは容易だが、笑いによる切断に止まるのは面白くない。面白さは、当時の大真面目さをどうにか納得してみようとがんばることにこそある。中世を生きた人々の合理性を、中世の環境や知識を前提として検討するという遊びにこそわくわくするのだ。そのためには中世の状況をなるべく詳しく知らないといけないのだが、じつは当時の感覚を腑に落とすためのこうした前提の収集こそがもっとも困難なことだったりする。中世まで遡らずとも、60年代の思想や、90年代のカルチャー、なんなら2010年ごろの言説でさえも、現在の世間に流布している気分や、いまの自分が有している語彙や体系を一旦解除して、そのときどきの目から見てなにが革新的であり何が盲目的に前提とされていたものだったのかを理解するのは、ものすごい手間隙がかかるものなのだ。現代的な視座から古典を評価するというのは今を生きているなら誰だってできる。当時を生きていない人間が、当時の時代の空気込みでそのときの言説の新しさを実感するために、過去に展開されていた空間を再構築しようとあらゆる文脈を丸呑みしようとすること、それこそが勉強とか研究といわれているものの要なのではないか、というようなことを考えている。この考えは大学時代に、ローマ法の講義で教授が言っていたことの受け売りだ。

 

ローマ法は近代諸法の起源であり、現代の法にまで通じる普遍性を持っている。そのような源流を学ぶことには現代においても意味があるんだ。ローマ法はこんなふうに論じられることが多いけれど、そんなバカな話があるわけない。ローマ法というのは古代ローマ人が自分たちのために作ったものであって、彼らからすれば未来を生きる僕らのことなんて知ったこっちゃないんです。ほんとうにローマ法を学びたかったら現代にまで通じる普遍なんて考えずに古代ローマの個別性を見ないといけない。

 

教授はそのようなことを繰り返し語っていて、大半の聴講生が単位目当てで出るだけ出て居眠りしていた静かな教室の片隅で、僕はしきりに、すげえ、と感激していた。これは僕の読書の基本態度の骨子だと思う。ありもしない「普遍」などの一つの原理になんでもかんでも収束させてしまうことは避け、それぞれの個別性を取り出そうと努めること。つまり、原理というものは具体的な時代や土地や環境によって、いくつでもありうること。肝心なのは、その時その場所ではなにが合理的なのか、をつど検討することなのであって、いつでもどこでも通用する理屈なんてないのだということ。僕は手癖で「そもそも」と書きがちなのだが、これもこの態度に由来する。A’という概念があるけれど、そもそもなんでAだったんだっけ、というような。

僕の最近のオカルト趣味も、オカルトそれ自体に関心があるというよりも、その受容史への関心なのだよな、というようなことを考える。オカルト的言説をぼくはひとつも信じていないが、少なからぬ人々が信じていた、あるいは信じ続けているということに惹かれる。信じる人たちにとっての合理性を考えたくなる。南森町さんに教えてもらった『何かが空を飛んでいる』を読み始めて、これはたいへん僕好みの本だな、と嬉しくなっている。円盤を「見た」というとき、人はじっさい何を見ようとしていたのか。

本は楽しいなあ。

24時からフルーツポンチパーティー。突然僕はフルーツポンチが食べたくなり、奥さんが家にあるものをかき集めて作ってくれた。桃缶、梨、みかん、缶詰のシロップをソーダストリームで作った炭酸で割って出来上がり。仕上げに苺のリキュールを垂らしてみたり、赤玉ポートワインを混ぜてみたり。すごいすごい、嬉しい! 深夜の大はしゃぎ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。