2022.12.01

きのう布団に入るときには、きょうは充実した一日になるぞ、とうきうきしていたのだ。

まずは亀の水槽を洗い、外に出て、家の口座に給料を移す。クリックポストの用紙を印刷してレターパックを買う。ついでに気分が上がる朝ごはんも買って、いちど家に帰り、コーヒーを淹れて朝ごはんを食べる。慌てずゆっくり荷造りをして、郵便局へ行く。郵送した旨をメール書き、残りの午前をのんびり過ごす。午後は奥さんと楽しみにしていた観劇に出かける。そういう予定だったのだ。

朝は起きれた。知らない人の頭をスコップで潰して回る仕事に就いていたのだが、次の現場が地元の歯医者で、うわ、ここ小学校の通学路じゃん、などと思いながら坂を降っていくと建物の前に母親が立っていて、ひし、と抱きしめられた。そこで、あ、僕はこの現場で死ぬんだな、と確信めいた予感を得る。そんな夢から覚めて、気分は悪くなかった。亀を洗い、家を出る。物凄く寒くて、マフラーを巻くべきだった。首が冷えていく。小雨も降ってきて、傘も必要だった。とぼとぼと歩いて行って、ATM の用事を先に済ませてコンビニに。明るくて溌剌としているのだが、明るくて溌剌としているが故にだいぶ苦手な店長が店を回している日で、いそいでワッフルとドーナツ、それに奥さんのリクエストの肉まんを買って退散。家に帰って、納品の準備をぜんぶ忘れたことに気がつく。優雅な朝ごはんはお預けだ。とはいえあの店長の大きくやる気満々の声をもう聞きたくない。別のコンビニ経由で郵便局に行くことにして、荷造りも郵便局のベンチですればいい。今度はマフラーを巻いた。傘も持った。バッグに納品する本を詰めて、再び歩き出す。コンビニ経由となるといつもの郵便局ではなく、ちょっと向こうまで行くことになる。コンビニでクリックポストの用紙を印刷して、郵便局の窓口でレターパックを買う。この郵便局はいつものところより狭くて、椅子も簡素で硬い椅子が端っこにあるのみ。そこに窮屈に収まって荷造りをしていく。手がかじかんでテープがよれてしまった。なんとか差し出して、帰り道に納品書を同封するのを忘れたことに気がつく。もうだめだ、僕はポンコツだ、と嫌になる。ようやくコーヒーを淹れて、朝ごはんを食べることができた。食後は『露出せよ、と現代文明は言う』を読み始めた。日記を公開したり売るのは露出の極みのようだし、僕自身ひとの日記を読むときそう感じることも多いのだが、僕はこの日記や録音を露出と捉えていない。個人の「心の闇」というのは大概は内容がなくてつまらないものだし、見せてはいけないものというよりも見せるほどの面白さが見出せない。けれども、こうして日々書いていることを、僕本人まで「内面」と錯覚してしまうという事態はなくはないな、とは思う。ほんとか?

いよいよ観劇に出かける。最寄りの駅のホームで入場に必要な身分証を忘れたことに気がつき、一人で家に引き返す。泣きそうだった。ただでさえ想定よりもギリギリに家を出たので、もうすこしで間に合わないところだった。気が急いて移動中ろくに本も読めなかった。せっかく家で始めておいて勢いを仕込んでおいたのに。

エーステ秋単東京凱旋。もはや呪文のようだ。たいへん楽しかった。休憩時間に気が付いたのだが、僕はまっすぐ座っているつもりでも気がつくと舞台の下手側に目線をやっている。おかげで下手側の客席ばかり眺めることになる。意識してみると、たしかに普段から僕の体軸は左に偏っているらしい。これは僕が左翼だからではなく、奥さんと並ぶとき、僕が右側だからだ。無意識に奥さんのいる方に体を向けているらしい。鍼灸に行った時も、妙に左だけ凝っている、と指摘されたし、自分で触ってみても背中の左側だけ妙に膨らんでいる。これは、もしかしたら、植物が太陽に向かって蔓を伸ばしていくように、奥さんに向かってねじれていっているのかもしれない。

終演後、お昼を食べ損ねたので奥さんがグッズ列に並んでいるあいだ、ドームシティのフードコートでハンバーグカレーを食べていた。ドームシティのクリスマスツリーは真っ赤な電飾で飾られていてほとんど魔神柱だった。

神保町まで歩く。そのあいだ僕の体軸についての仮説を奥さんに提示して、ためしに奥さんを右側にしてみることにした。落ち着かないのは体の歪みゆえなのか、それとも単に習慣に抗う違和感なのか。こうして日記を書いているとき、隣に奥さんはいないのだが、気がつくと体の正面が左に寄っているのに気がつく。ことは思った以上に深刻なのかもしれない。意識的に胸をひらき右の肩甲骨をぐいっと内に入れると、景気良くパキパキ音が鳴る。さて、神保町。カギロイ。久しぶり。かぶの甘酢漬け、梅味噌と生野菜、唐辛子の鉄板焼き、肉どうふ。どれもおいしい。ゆっくり飲んで、二軒目は眞踏珈琲店。二階にして正解だった。カウンター席では酔っ払いが大声で、わたしは一回やったことは二回目ではもう失敗したくない、失敗する自分が許せない、人に完璧主義とよく言われる、でもそんなつもりはない、というような話をしていて、たいへんそうだったから。棚にあった『宝石の国』の新刊を読む。トイレのレヴィナスのカバーが擦り切れていて、神も、死も、時間も、排泄に急ぐ人々の手によって消尽してしまったようだった。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。