昼ちかくまで寝て、録音をしてからお散歩。おいしい麻婆豆腐を食べた。
帰り道のスーパーで箱のアイスと、冷凍のいちご、オレオ、マシュマロ、ジャムを買って帰る。『薔薇王の葬列』の舞台の映像を観て、幕間にアイスをボウルに移して各種具材と混ぜて食べる遊びをした。オレオとマシュマロを混ぜたやつ、ジャムと固形のいちごにブルーベリーとナッツまで混ぜ込んだもの。コールドストーンがいつのまにかほとんど撤退していたから、自分たちでやることにしたのだ。歌おうと言っていたのに、いざ作り出すと混ぜるのが楽しくて黙々とやってしまった。一日にひとつでも、こうして自分たちで手を動かす遊びができるといい気分になれる気がする。二幕を観終えるともう夜で、エンドロールで画面の傾きに気が付いてしまったからpopInやスクリーンの調整をあれこれやって、きれいにできたので確認のため来年のトランスフォーマーの予告編を流してやんややんやした。『チェンソーマン』を観たら画面があまりに綺麗で、あ、popIn って本来こんなに鮮やかに映るもんなんだ、と驚いた。今回のエピソードくらいから、あっという間に自体が転がっていく快感が始まるのだっけか。前半と後半の落差にくらくらして楽しかった。声がつくとデンジの悲惨さが際立つようで、ここまでの話はどこか沈鬱な空気が立ち込めていたけれど、ここにきて鬱屈はそのままに疾走しそうな予感がある。
デンジって、めちゃくちゃ恵まれない環境に生まれたんですよね。義務教育も受けていないし、まともな状況下で育っていない。そういうとんでもなく不幸な状況だと、具体性を失っていくと思うんです。とにかく幸せになりたい。でも、幸せになるためにはどうしたらいいかというところにまで考えが及ばない。とにかくお金が欲しい、何をどうすればいいかもわからないけれど、ただ欲しい。そうやって、欲求がものすごく抽象的な感じになると思うんです。とにかくハッピーに生きられたらいい、楽しければいい、ラッキーだったらいい。そういうふうにしか考えられないのって、非常に大きな不幸の裏返しである気がするんですよね。「チェンソーマン」のオープニングテーマを書くにあたってデンジという主人公を表現するためには、「幸せになりたい」「ハッピー」「ラッキー」みたいな具体性を失った平坦な言葉、わかりやすい言葉で構築していく必要があると思いました。
米津玄師「KICK BACK」インタビュー|「チェンソーマン」の“痛快”を 直感と衝動のままに叫び描いて https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi21
僕の日記はもともと抽象のレベルを上げて日記を書くとどうなるかを試行する場だったのだけど、感染症の流行以後とくに顕著だがどんどんと具体性が侵食してきている。僕はそれを貧しさだと考えていたけれど、もしかすると不幸という状況から遠ざかっているのかもしれないな、とこのインタビューを読んでから考えている。もともと僕は幸福も不幸もよくわからなくて、感覚的な快不快しかないように思っているのだけれど、それでもやはり、何年か前まではヒリヒリとした「幸せになりたい」という、具体的な対象が不在の空疎な祈りを抱えて立ち尽くしていたのではなかったか。
