書くという行為を露出と捉えるか秘匿と捉えるかで日記への印象はだいぶ異なるのだと思う。
はじめに日記本を自作したとき、「よく他人に生活を曝け出せますね」みたいなことをやんわり言われることが何度かあったけれど、そのたびにこの人にとって書くとはなんなのだろう、と不思議に思っていた。書いて減るものなどない。書けば書くほど書かれなかったことが増えていくような感覚がずっとある。
人の日記やエッセイを読む機会が増えて、ああ、こういうことなのかも、と思うことも出てきた。自分の美意識からするとここは書かないな、ということを平気な顔で書かれている様子を見るとたしかにぎょっとする。けれども当人からしてみれば、やはり書いたことよりも書かなかったことの方が膨大にあろうとも思う。沈黙は言葉の不在ではなく、言葉があるからこそその背景で膨張していくものなのではないか。
僕は何も書かず、何も語らない多くの人たちの騒がしさの方が不可解でならない。言語化なしに静けさを得ることなどできないように思う。書くことでようやく頭の中に余白ができる。言葉を置いたあとに残る空っぽな空間を予感できるものを書きたいと思う。あるいは、饒舌のリズムの他にはなにも見出せないようなものを。書かれたもの自体は表面しか持たないのがいい。ただし、その表面はざらついていたり、凹凸があったほうがいい。つるりとなめらかで引っ掛かりのない表面に面白みを感じられない。どうせ表層しかありえないのだから、その手触りは多彩であったほうが楽しい。
どれだけ異なる顔をしていても、腹をひらいて内臓を取り出したら個々人を見分けることはできないだろう。モツはモツであり、匿名性の極みである。中身などというものはつまらない。情報をより効率的に伝達する簡便な文章というのは、食品トレーにパッキングされた内臓のようなものであって味気ない。陳腐でない内容などないのであって、だから表層的な顔のちがいを軽薄に選別するほかない。
なんだか今日は妙に目が渇く日だ。