日本の街はほんとにゴミ箱がないな。串団子を食べ歩いて、食べ終わってもいつまでも串を片手に歩かなくてはならない。こういうとき、公共の衰退を実感する。公共とはゴミ箱と、ゴミ収集のことなのだ。ゴミ箱をどんどん減らして「自己責任」での持ち帰りを推奨する結果どうなるか。ゴミ箱がないから仕方なく自販機横のペットボトル用のゴミ箱に無理やりプラ容器を突っ込んだり、諦めて道端にポイ捨てする人が増える。そういう「正しくない」人たちだって、ゴミ箱があればゴミ箱に捨てたいだろう。自分たちでテロ対策だのなんだのと理屈をつけてゴミ箱を撤去しておきながら、街が汚くなっていく責任を個人のモラルにだけ押しつけるのは、端的にふざけるなと思う。気持ちのいい街が欲しいなら、ゴミ箱をふんだんに設置し、こまやかな収集のルーティンを設計しなければいけない。
渋谷で蕎麦食べて、表参道まで歩く。トミーヒルフィガーのミッフィーのやつをひやかして、満足して渋谷に引き返す。
ジュンク堂で本を買う。来るたび新鮮に、棚に挟まれた通路の長さにくらくらする。奥さんとうきうきと美術の棚から攻めていく。岡崎乾二郎の綺麗な本は買い、ベケットの戯曲集の新訳はもうすこし置いておきたい。人文コーナーへ。史学から人類学へと流していく。ヒュパティアは図書館で借りたから我慢、台湾の妖怪のやつ。マーク・フィッシャーの新しいのはまた絶版になると嫌だから抑えておく気持ちで。文芸の棚の前に奥さんが疲れて離脱。ベケットの復刊が充実してるけれどベケットは年の瀬にまとめ買いしよう、鼓直の句集は表紙が亀だしお迎えしとこう。東急は暖房が効きすぎていて、ふたりとも汗ばんでぐったりしてしまう。
地下のカフェで英気を養ってから帰る。帰りの電車では絵画の三体問題を始める。
予感(という動機)から考えれば、作品を作ることも見ることも何かを再発見し、再把握するプロセスである点において大きく違うものではない。が、この二つの行為を同時に行っている、という言い方は正しくない。その二つは影響しあうにしても、決してうまくは同調しない。(ちゃんと経験したこともなく、それを語る資格もないが) ビリヤードをプレイするのとも似ているのではないか。すなわち絵画のテーブルを支配しているのは場所の予感である、として、そのテーブルを通して何かを見ること、そして作ることは、その与えられた場所の上で、たかだか一つの球を狙い澄まし、一つひとつ突いてみることにすぎない。けれど、その一突きで、テーブル上のすべてのボールがときに連動して動くだろう。 予測不可能にも思える球の連動によって、球は最終的にポケットに落ちる。突いた本人もすごいとおもう。しかし、いずれ球がポケットに収まるだろうことは、この場所にとって、あらかじめ予期されていたのだし、また結末は盤面に散ったすべてのボールの反撥の連動によって生じる配置の動的変化で生み出されるのだから、それは盤面の球全員(!)で作り出した結果とも言えるだろう。いずれ、誰かがそれを起こすことは決まっていたことである。私だけでやったわけではない、十分予期されていた配置変化に加担しただけである(アリストテレスの言ったトポスとはこのビリヤード台のようなものだったのかもしれない)。
岡崎乾二郎『絵画の素』(岩波書店) p.ⅱ-ⅲ
「ちゃんと経験したこともなく、それを語る資格もないが」で大はしゃぎして、「突いた本人もすごいとおもう」で大喜びだった。こういう素朴なお茶目さが溢れてくるような文章がなにより好きだ。
ティラズマの眩しさ。阿賀沢紅茶は言語化の功罪を描くのが本当に巧い。