2022.12.10

朝起きても35度台だったので、ちぇっと思う。せっかくなので二度寝して、昼前まで寝た。Netflixが見られるテレビを使って『ブラック・イナフ?!? -アメリカ黒人映画史-』を観る。映画の黎明期から70年代までの黒人映画の変遷を描くドキュメンタリー。公民権運動と『ナイト・オブ・リビングデッド』の対応関係を知りたくて観たのだけど、これが素晴らしかった。『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストシーンよりも、本作の二時間強のほうが映画に遭遇するわくわくした気持ちを喚起するような、優れた作品ガイド。どの映画も観てみたくなる。人種差別を背景にした小劇場の存在、サウンドトラックの先行販売という宣伝手法を確立したのは黒人映画であること、史上初の黒人俳優のみが出演する映画を監督したのは女性であることなど、知らなかったことがたくさん。性の表象に現れるステレオタイプと抵抗の意図の読解など、画面を批評するための目のレッスンにもなる。『キラー・オブ・シープ』、『ブラック・ミッション 反逆のエージェント』、『吸血鬼ブラキュラ』、『コフィー』が特に観たくなったのだけれど、どれも配信にはなさそうだ。

寝室のスクリーンで私的二本立てを企てて、『黒のジャガー』と『スーパーフライ』を観た。続けてみるとオープニングで街を斜めから鳥瞰するようなカメラや、音楽の扱いなど、当時の気分が鮮明に浮かび上がるようで面白い。『スーパーフライ』の途中ですこし寝てしまったので起きてから巻き戻した。スクリーンに投影される映画を停止して巻き戻すというのは、非常に冒涜的な気分になってぞくぞくする。どちらも今の映画と比べればテンポが遅く、物語の情報としてもそこまで多くない。だからこそ構図や身体の雄弁さが際立つようで、時間の使い方が贅沢だな、と思う。速い映画はなにより時間の進め方に貧しさがある。退屈で無駄なショットが観客を満たすのだ、などと古風なうるさがたのようなことを思う。

夜になって熱が上がってきたので、わかしょ文庫・宮崎智之「随筆かいぼう教室」というトークイベントの配信を流しながらうたた寝。自照文学という言葉を初めて知った。自身の経験と思索から批評を試みる主観的な叙述を特徴とした文学らしい。もうすこしディグりたくなる言葉だ。私小説と心境小説を、心情を語るために人物を造形するか否かで区別していたというお話も面白い。

書くとき虚実の塩梅をどう見定めるかとか、言語化しすぎることによって引き寄せてしまう「不幸」みたいなものとの付き合いかたとか、その話混ぜて〜!という思いが湧いてくる。人が話しているのを見ると話したくなってくる。これは雑談の効能だ。わかしょ文庫さんが「エッセイ的な言葉は日常会話で使えないし、LINEで送れない」というようなことを話されていて、おのおのの随想を送り合うLINE グループやオープンチャットがあったらいいな、などと考えた。それってかつてはTwitterが担ってたものでもある。

Twitterが「ミニブログ」として個人サイトやブログの派生としてでてきたとき、日本の多くの人はこれを自照文学の空間として、内省と体験に基づいた思索の現場として受け入れたのではないか。でももともと内包されていた設計思想に沿うようにして、徐々に弁論の場になっていった。弁論の担い手からすれば、個人の日々の他愛もない感情の機微など、議論を妨げるノイズでしかないだろう。個人の感想を排除する風潮への抵抗としても随筆はある。この日記も。一方の意見を排斥し対立を超克するのではなく、個々の固有性を際立たせ差異を差異のままに共存させる言葉の運用。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。