巷で耳目を集めるのは極端で異常な人たちで、だからテレビやSNSだけ見ていると世の中というのが最悪な場所に思えてくる。ふだんの生活のなかで出会うのは、テレビに出そうもないしSNSでバズりそうもない「ふつう」で「平凡」な個人たちである。
以上のような感覚は、それこそ大多数の人たちが抱いている生活実感だと思うのだけど、耳目を集める極端で異常な人たちがうじゃうじゃいる場所のひとつが政府である状況は、やはりかなり酷いことだと思う。政治の場こそ「ふつう」に運用されて欲しいのだが。これは、お前の「ふつう」は普通じゃないんだ、みたいな議論ではない。「ふつう」の破壊と更新はボトムアップの政治の領域だ。税制度など、トップダウンの政治が個人の素朴な生活実感から乖離してる時点で現代の政治としては失格である。
「ふつう」に「まとも」な感覚を持ってる人が新規で参入しようという気にまったくなれないものとして政治の現場があるの、意味わかんないくらい怖い。異常に極端な人たちしかいない場所で、大多数の「ふつう」の生活が左右される決定がなされていく。
『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』、翻訳の文章がとても下手くそだ。建築系の翻訳ものは、とんでもない悪文が多くて楽しい。どうやったらこんなひどい日本語でよしとできるのか。それはそれとして、自分たちでセッティングした討論会の参加者へのディスが露骨で笑える。
もちろん私たちは、出発の前提として,討論はフリーであることを想定した。 したがって、グループは正確には,私たちが考えていたような進路をとらなかった。(…) 結局, プロジェそのものの細部にまで及ぶ, 真の批評ともいえるものは実際には何もなされず,それに対する分析もなされなかった。 ただ,先験的な、一方ではル・コルビュジェについての知識と彼の作品に対する興味,他方では参加者の問題追求の姿勢があっただけである。(…) 討論のときには,プランは壁に貼られていたし、 資料は前もって参加者に配布されていたし、住民たちによってもたらされた変更の写真を目の前に持っていたが──これらは確かに彼らの好奇心を引き起こさずにはいなかったが厳密にいうと,正確で詳細な指摘はまったくなされなかった──分析の質はほとんど向上しなかった;
フィリップ・ブードン『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』山口知之・杉本安弘訳 p.80
ここはまあ原文の文法構造をわかりやすく提起する文章だな、と思えるかもしれない。僕の方で読む気が失せる部分を省略したというのも大きいだろう。肝心のインタビューとなるとこの素朴な逐語訳のひどさが顕著になる。こうだ。
s. 一建築と建築家にとって中心的な問題は、住居の問題ですか? それとも建築は別の物なのですか? 何も知りません、聞いているのです…
E. それは別の物です。
B.一確かに!
同書 p.88
ださい。日本語がださい。第二外国語の課題かなにかだろうか。いちいち引用はしないが多くの部分で「それではそれはそれなのですか」「はい、それではなくこれであればよかったのですが」みたいな野暮ったい文章が続く。原文からして、インタビューの書き起こしとしてなるべく生っぽさを残そうとしているのだろう、言い淀みや中断、飛躍が頻発する、そのままでは論旨の追いにくい発言を未加工で提示しているのだろうが、このような翻訳を介すると端的に意味不明である。今となっては機械翻訳のほうがずっと小慣れているだろう。
いやはや、悪文を読むのはたいへん愉快だ。言語とはこんなに美意識が欠如していても使用できるいい加減な道具なのだ、というような頼もしい気分になる。未知の領野を切り開こうとするとき、人は自分の限界をちょっとはみ出たところで書こうとする。すると自分でも何を書いているかわからないままに書くことになる。それでも文字群は言葉として成り立ってしまう。僕は混乱の中でみっともなく暴走する言い淀み、勘違い、書き損じ、そうした失敗を読むのが好きだ。悪文の向こうには未知のなにかが拓けている、こともある。たまに。翻訳は、著者の無理解と訳者の無理解が相互にこんがらがっているから余計に面白い。ただ、読み物として作るのであれば、建築の本を建築の専門家が翻訳するのはやっぱりやめたほうがいいのではないか、とは思ってしまう。
