寒さが本格化してきて憂鬱さに囲まれてしまったように感じていた時期、「Shiny Seven Stars!」を聴いていたらすごく励まされてアイドルとはこういうことか、と思った。
あのね
(もしも)
君が
(自分を)
嫌いになっても 大丈夫
だって僕がずっと大好き!
一条シン(寺島惇太)・太刀花ユキノジョウ(斉藤壮馬)・香賀美タイガ(畠中祐)・十王院カケル(八代拓)・鷹梁ミナト(五十嵐雅)・西園寺レオ(永塚拓馬)・涼野ユウ(内田雄馬)「Shiny Seven Stars!」作詞:三重野瞳,作曲:下山晃美
アイドルは僕はずっと怖くて、虚構のものでないと受けつけないのだが、生身の人間を消費するグロテスクさを、おそらく芸能ではないところでは平気でやってしまっているのだろうから、いつか救われてしまうのかもしれない。この歌の何がいいかって、とにかく歌っている僕たちにとって、僕たちを見つけてくれて信じてくれた君たちこそがスタァなんだ、という態度だ。いま僕がこうしてステージに立っているのは、君がいたからで、歌い踊る僕たちを見て笑ってくれる君は史上最高に眩しく煌めいている。こんなこと言われたら夢中になってしまう。
他者に好意をもつことは、自らを励ますひとつの方便だ。直接じぶんを好ましいものと思えない時、他者に送り出した好意が反射してこちらを照らし出してくれるような経験は大きな支えになりうる。その行為の真偽は問題ではない。対象の実在も重要ではない。
非実在の生物を心底信じるという経験が、子供の心に椅子を作る。人が成長し、空想の生物が去ったあともその椅子は残る。そして今度は現実で出会った大切な人を座らせることができるのだ。児童文学者であり翻訳家でもあった渡辺茂男の言葉だとされるこのような言葉を思い出す。この言葉の出典の不明瞭さや名言だけが一人歩きする感じは、アフリカには存在しないアフリカの諺──遠出するときは大勢で、みたいなやつ──を彷彿とさせる。いい加減に調べると下記のブログが最古のように思えるが、まだまだ怪しい。
私は大学の頃、音楽心理療法学という講座をとっていたのだけど、あるとき、児童文学の金字塔`エルマーの冒険´(ルース・スタイルス・ガネット著)のすばらしい日本語訳をされた渡辺茂男さんがゲスト講師として招かれ、講演をされた。タイトルは`サンタクロースの椅子´という感じのものだった。(ごめん、うろ覚え)
渡辺さんは言われた。「子供の頃にサンタクロースとか、ドラゴンとか、いるはずのない架空の生き物を心底いる、と信じることが人間には必要なんです。その数が多ければ多いほど、子供の心の中に、椅子ができる。大人になってゆくと、なあんだ、サンタクロースなんかいないじゃん。と、そこに座っていた架空の生き物たちは消えてしまいます。でも、それまでその椅子を温めてくれたサンタクロースのお陰で、人は、大人になって愛を知った時、今度は本当に大事な人をそこに座らせることができる。」
http://necozawa.seesaa.net/article/168090525.html
この言のいまいちなところは、空想に椅子を温めさせるのは幼少期の通過儀礼であり、長じてからはじっさいの交遊に「発展」していくことが当然という成熟観が前提となっているところだろう。大人になっても椅子は増産できる。僕たちは他者を招き入れるための椅子をまだまだいくつだって作ることができるのだ。
とにかく、僕はアイドルとはここでいうサンタクロースのようなものだと思うのだが、だからこそアイドルが空想による創作であってほしい。一枚絵の連写による運動の錯覚と同程度に、多くの人間によるディレクションや膨大な設定資料、幾重にも張り巡らされた虚構の膜に覆われているとしても、その中心に生身の人間がいる類のアイドルは、その生身が生々しい。そんなものに、僕の椅子は共作させられない。生身の人間は、共に椅子を作るための存在にはなりえない、というか、なってはいけない。そこには他人を手段化するような野蛮さがある。隣り合って座ることがないであろう遠くの他人であっても、勝手に椅子の共作者として召喚してはいけない、という倫理がある。召喚していいのは作品だけだ。アイドルのような虚像を作品と呼ぶ人が一定数いるのはわかるが、それは欺瞞だと感じる。作品に内在する論理を深く問うのはいいが、作者の人格を邪推するのは下卑た態度である。前者は作品を読み込むことであらたな椅子の制作へとひられていくが、後者は知りもしない他人を独りよがりに既存の椅子に押し込める。他者との交歓の可能性をひらくのか閉ざすのかと言い換えてもいいかもしれない。生身の人間に虚像を押し着せるのはあきらかに他者がとりうる形態を一面的に限定する行為で、下品だ。僕は下品なのはいやだ。
M-1 に代表される、近年のお笑いの消費の相貌が苦手なのは、このような感覚による。今年はゴールデン街で飲んだ人に勧められたから見てみようと思ったのだが放送日を把握していなかったのできょうアーカイブで見た。ネタ以外のところは全部飛ばすからストレスがなくていいが、ネタだけで見ても場の緊張感や流れはわからないから、ただ張り詰めて従来よりも走ってしまったり精彩を欠くものを見せられているような気持ちになって、結局は人間ドラマありきで見ないと面白くないのかもしれないとも思う。年末の格闘技が本番よりも煽り合うインタビュー映像の方が盛り上がるのと同じだ。飲み屋で、あなたはこれが好きだと思いますよ、と言われたカベポスターと男性ブランコは確かに好きで、ほんの小一時間の雑談で趣味嗜好というのはバレるものだと感心する。男性ブランコ、それにヨネダ2000のように賞レースにほとんど関心を払わないで我を通す不遜さにこそ惹かれた。できあいの賞や漫才よりも自分たちのほうが面白い、そういうのがいちばん笑える。なにかしらの権威に寄りかかった時点で笑いは腐る。お笑いに疎いくせに知ったふうなことをいう。なんにせよ、面白ければ金も名声も手に入る、みたいな構造も含めて、芸能としてのお笑いというのはアイドル以上に「いわゆる新自由主義」の顔であることだな、と空恐ろしくなるから、やはり苦手な催しだ。芸人やその芸はくだらないもの、音符運搬業者の優れた重心コントロールのように意味からも見放されたとるにたらないものであって、そんなものに社会的意義を見出そうとする助平心の貧しさは不気味だ。ナンセンスは自閉しているからこそ強度を持つ。それがいくらマイクを通してこちらに訴えかけてくるような外見をもっていたとしても、引き起こすことを期待されている腹や口角の痙攣はじっさい非社会的なものである。笑いとは切断であり、人は笑うとき社会の文脈から切断された真空地帯で切断面のあけすけさを笑っている。しかし切断面がいくら露骨だからといって、社会とは継続する文脈でしかないので静物を眺めていても運動は捉えられない。
芸能だとか資本だとか、非社会的なものばかり社会として語るから社会が破綻する。あるいは、非社会的なものまでもが社会化し、反社会的なものへと陳腐化してしまう。笑いは社会を覆い隠しはしても明らかにはしない。社会という誰もが座ることのできる長椅子を信じ切ることはおそらく誰にもできない。だからこそ一匹でも多くのりゅうを助けようと冒険を続けるのだ。