2022.12.23

「心の砂地」というポッドキャストを聞いていて、読んでみようかなと思った清田隆之の男性本は、僕が図書館に借りようとする本としては珍しく何件もの予約が入っていて、ようやく順番が回ってきた。こういう本が図書館利用者に求められているというのはなんかいいなと思う。対談形式なのでするすると読めて、一日で二冊読み切れそうな感じ。速度としては軽いのだけど、読みながらモヤモヤと「どうして僕はこうなんだろうか」とひとり脳内会議が始まってしまう。幼稚園のころからの自分の振る舞いを思い返しては自身の加害性を点検するというのを四半世紀分やってみて、自己嫌悪に陥らないわけにはいかない。

僕は幼稚園のころから一貫して同性の暴力的であったり競争的な人間関係のありかたに馴染めず、あるいは特定のグループに所属するということができず、とにかくクラスのあらゆるグループを行ったり来たりするようなことを高校まで続けていたように思う。だからひとつの人間関係に帰属意識も疎外感も抱くことなく、フラットに「どこにもしっくりくる居場所がないな」と考えていたんじゃないだろうか。さみしさや心細さはあるにはあったけれど、悲壮感はなく、ひとりで本を読んだり映画を観るのがいちばん楽しかったし、かといって孤高を気取るでもなく教室で人と話すこと自体も苦ではなく楽しんではいた。うっすら皆のことが嫌いだったし、同じ程度には好きでもあった。あらゆる意味で煮え切らない態度というのは、だから僕はずっとそうだったといえる。小狡い蝙蝠、と奥さんに評されたこともある。

この小狡さは、自覚的なところではミサンドリーが色濃く含まれていたのだが、その自覚の陰にミソジニーやマチズモが潜んでいなかったとはいえない。僕のようななまじ器用な文化系であったような人間こそがたちが悪いというか、自分のことをどこか「男性」とも思っていないふしがある。

象徴的なのは幼稚園児の僕のエピソードだ。そのころの僕は女の子グループと遊ぶことのほうが多く、一緒に帰るのも家に遊びに行くのも女の子ばかりだった。男の子はどちらかというと「外部」で、とくにひとり仮にエス君という男の子が嫌いだった。エス君は園中を駆け回りスカートめくりを繰り返すような子で、僕はエス君が現れるたびに「気を付けて!」と友達グループに注意喚起してスカートの裾をガードするように促したり、エス君を積極的に拒絶するような空気をつくったりして得意になっていた。エス君が園内の嫌われ者になって、ほとんど誰からもきつく当たられるようになるまでそんなに時間はかからなかったように思う。守るべき「自分たち」と排除すべき「あいつ」の区別を拡大再生産し続けた自分の無邪気さは、いま振り返っても、うっわ、と思う。思うが、僕は幼稚園児と較べてましになれているだろうか。かなり怪しい気もする。

何年ぶりだろう。飲んで終電。志村のフジファブリックを聴きながら帰る。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。