きょうはどう過ごそうねえ。朝になってもまだこんなことを言う日はだいたいむにゃむにゃしたまま終わる。僕が、どうしようねえ、と言うと、奥さんは決まって歌うようにつぶやく。
なんのために生まれて何をしてよろこぶ、わからないまま死ぬ〜
僕はこれがすごく嫌なので毎回うつむいて押し黙る。そうしてなにもわからないまま一日が終わるが定番の展開なのだが、きょうの僕たちには欲望があった。船に乗りたい。あきらかにきのう横浜まで行ったのにシーバスに乗らなかったことが響いている。浅草まで出て、お台場までを繋ぐ東京水辺ラインという水上バスに乗ろう。そう決めると船が好きな二人はうきうきした気持ちになる。
午前中は先月はばたばたしていてしそびれてしまった納品の準備をする。ついでに棚卸しもすると、だいぶズレていてこれは一体なんだろう。やや落ち込みつつ帳簿を修正して、気がつけば既刊の在庫がほとんど残っていない。昨年の本はゆっくりと売れたから、増刷はしないかもしれない、というか、するとしてタイミングや部数に迷う。とにかくあす郵便局に持っていく分のピックアップを終えて、スプレッドシートもきれいにして、出かける準備を整える。
浅草について、隅田川をめざす。混雑していそうな浅草寺のほうを避けて歩いたから人手がどれほどかよくわからない。めちゃ濃いことを謳う抹茶ジェラートのお店はずいぶんな行列だった。ぽてとさんのポッドキャストを収録した後に食べたおいしいカオマンガイのお店の近くに出て、あっちのカオマンガイがおいしい、と奥さんに教える。水上バスのチケットを買って、時間まで公園のベンチでコーヒーを飲む。ある信頼する本読みの方が挙げていた年間ベストは、ほとんどが海外文学と硬派な人文書なのだが一冊だけ表紙がまっちろけの量産型ビジネス書みたいなのがあって、それが眩しく見えたのでKindleで買ってみた。企画の本だ。こういう本は、読む前から読んだ後の僕は企画ができるようになっているんだろうな、と読後の自分の行為への期待が高まるからすごい。そのくせ書いてあることは当然のようなことばかりで、それでいい。本は、読む前に抱く幻想がほとんどすべてだ。これを読んだらすごく楽しいんだろうな、いまは知らないことを知っている自分になれるんだろうな、あのことに関するモヤモヤがすこし晴れるんだろうな、知的生産の技術を取得しちゃうんだろうな、など様々な期待や欲望に応えてくれそうな雰囲気。それこそが本の魅力で、本に限らずなにかに幻想を抱いて、軽薄に夢を託してしまう態度というのは日々を彩るよねえ、というような話を奥さんとしていた。幻想と幻滅。その繰り返しが健康な本読みのリズム。いい本は、ほんのすこしだけ、幻想が持続する。その束の間の勘違いのなかで人は行為を始めることができる。
乗船時間になって、船に乗り込む。風に当たるのが好きだから、もちろん階上のデッキに出る。とても上手に船は発進する。船を操れる人は縦列駐車とかも上手だろう。岸から離れていくと、陸地にいる人たちが手を振ってくる。船となると誰もが親しげに手を振りたくなるのはなんなのだろう。船上のこちらも気恥ずかしさを隠して振り返したり、隠しきれず目をそらしたりする。着ぐるみバイトってこんな気持ちなのかもね、と奥さんが言う。隅田川を南下していく。ケイコが友達と行ったであろうカフェが見えた。いくつもの橋をくぐるが、川を渡す橋は低いところに架けられているものも多く、デッキにいる人たちは何百メートルも手前からしゃがむように促される。そうしてしゃがんで待ち構えていると、じっさいデッキの柵のぎりぎりのところを橋のお腹がかすめていく。スリリングで楽しい。何度も何度もしゃがんで、わくわくと橋の下を通過する瞬間に備える。どれだけやっても嬉しくなって、楽しいな、楽しいな、と声に出して喜ぶ。しゃがんで頭上を見上げると言う動作がまず楽しい。それに船は動いているから、ずっと景色が動いている。映画を見るときの悦びも、動いているということだ。動いていて、それを立ったりしゃがんだりして眺める。面白くないわけがない。風も感じられるし、いい天気だから日差しも気持ちいい。雲ひとつない。左手には月も綺麗に出ている。停留所で乗組員が手際よく岸に寄せて、足場を組み立てる動きも鮮やかでわくわくする。竹芝の水門をくぐるのもすごい。ここは本当に頭上スレスレに水門がくる。竹芝の停留所から折り返すから水門は二度くぐれる。二度目はお台場のほうへ抜けていくから、浜離宮を囲む水路から海の気配が濃厚なところへ一気に視界がひらけてくるダイナミックさがある。わーい!という感じだ。レインボーブリッジは背が高すぎてしゃがめないからここにきて階下に降りてベンチに座ると隣のおばさんに写真を頼まれる。何枚もアングルを変えて撮る。じゃあこっちもお願い、と二人の写真を撮ってもらう。一時間くらいたっぷり乗ったのだろうか。満ち足りた気持ちで、でも冷たい風に吹かれてお腹は空いていたからお台場の商業施設まで歩いて、フードコートに席を確保する。夕日を浴びてピンクに染まるガンダムのお尻を見ながらとんかつを食べる。奥さんはすき焼きうどんを食べた。
せっかくなので商業施設のなかを練り歩く。出かけ際に靴紐が切れてしまったからABCマートで靴紐を買う。僕はいま革靴しか持っていなくて、スニーカーがあってもよかった。ニューバランスの黄色いかわいいやつがセールになっていたから試しに履いてみるととても可愛いので買った。ずいぶんと長いあいだ指輪も探していて、だからアクセサリーショップをいくつか回る。横浜とか横須賀にありそうなチャラくてやんちゃそうなお店で、厳しい上下関係のなかで培われたようなていねいな言葉遣いのお兄さんに見繕ってもらったシルバーのやつを買う。ヒップホップ、サウナ、スパイスカレー。都会でも通用する地方都市のマイルドヤンキーネス。そのほとんどが好きであることに僕は僕の限界というか田舎者を感じる。買い物もまた、今日よりもいい明日への幻想を新調したり手入れする行為だ。
思わず充実の一日だったねえ、とほくほくしながらモノレールで帰る。