僕は何かを始めるぞというとき、誰かに教えてもらうという発想がないらしい。説明書も読まないほうだったが、これは読んだほうが合理的であることも多いと学習しているのだ。始めないことには人に訊きたいようなことは出てこない。始めてようやく個別の問いを獲得することができる。教えてほしいというような必要が行為に先立つことはない。始めたいのだがどうすればいいのかわからない、という状態で、誰かに教えを請うて背中を押されたとしても、人は何かを始めることはできない。始めてもいないことをまじめに考えることはできないからだ。何がわからないかをわかるためにも始めるしかない。しかし始めるというのはおそらく意志ではできない。うっかり始まってしまうものなのではないか。あらゆる行為はいつの間にか始まっているもので、はっきりとここが起点であると確定できるようなものではない。行為というのはつねに軽薄であったり粗暴であったりする。考えていては踏み込めない一歩。その一歩がどうにかして為されてしまってはじめて、いかに続けるか、あるいはいかに止めるか、という方法についての問題が立ち現れてくる。
本屋に寄ってあらゆるジャンルの小説の書き出しを片っ端から立ち読みした。僕が小説を書くとしたらどのように始めるだろうかと妄想する。きっと漫然と書き散らかしていって、軌道に乗ってきた感覚がやってきたところで、それまでの文をバッサリと棄てて、切断面をそのまま頭に置くだろう。
僕は抽象化は得意なのだが具体化がひじょうに苦手だ。全体像を描くことはできても、分解はできない。大雑把に幹をとらえたらそれで満足してしまうのだろう、枝葉の話を突き詰めていくのにどうしても身が入らないのだ。こういう人間は小説のような文字を使った制作に向いていない。小説とは具体だからだ。労働においても課題の核心を言い当てることだけはできても、それを細かいタスクに砕いていくのが本当に下手で、実行フェーズに入ったとたんに無能になる。計画は複数の事象の抽象化と架橋であり、実行とは具体の集積である。作品をつくるというのは実行の側にある。何度か僕は小説かあ、とぼんやりと思うことはあったが、決して書き始めるということはなかった。そもそも僕は書こうと思ったことなどなかったのだろうし、書いていない以上、書かないということなのだ。いつか書くかもしれないし、そうでないかもしれない。それは僕が決めることでもない。これはあらゆることがそうで、僕が始めようと思って始めたことなんてひとつもにない。勝手に始まっていた。本は知らない間に増えるし、気がついたら「最強の部屋着」とかで検索しているし、外は寒いし、雨は好き勝手に降りやがるし、いつの間にやら生きていた。いったいなんだっていうのだろう。
元気がないので夜はYouTube で『破壊ランナー』を観た。スタンプぺったんスタンプぺったんラーラララララララ〜