2023.01.23

明日から木曜にかけて大寒波がくる。先週の頭くらいからそのように予報されていて、じっさい今になっても覆っていないからそうなのだろう。今晩から気圧も急転直下で、頭もうまく働かない。きのう『日本文学盛衰史』を観に出かける前に、『映画原作派のためのアダプテーション入門』を読み始めて、すぐれたアダプテーションの例を鑑賞する前にこの本を始めたのはいいタイミングだったな、と思う。小説を映画など別のメディア環境に適合させるために翻案することは、ただの小説を原作にする。映画化があって初めて原作という存在が成立するのであり、映画化に先立つ原作などありえない。原作派を自認する時点で、すでにあなたは映画化を前提とした観点にあるのだという冒頭の指摘から楽しい。いちいち図解が挿入されるのも軽やかで、いい本だ。

『〈世界史〉の哲学』も終盤、といっても近代編はもう一冊あるしまだ折り返してもいない。ずっと読めて嬉しい。近代における小説の誕生は、プロテスタントによる日記によって準備された。プロテスタントはカトリック教会において告白が担っていた贖宥という機能を批判し、告白を日常的な営みとしていく。そのための実践として日記があり、日記を書くことはつねに自分の行為を描写し、描写された自分を第三者の審級に照らし合わせることで救済に値するものなのかを検証するというように、書く〈私〉と書かれる〈私〉とを二重化したうえで両者の距離をほとんどゼロに近づけていくことを要請する。私の日々の行いはどのようなものだったか、ほんとうは私は疑いや劣情を抱き信仰を裏切っているのではないか、そのように絶えず自問自答するなかで人々は己のなかに、表立って示される言動とどうしてもぴったり重ならない部分、シニフィアンの過剰あるいはシニフィエの欠如を感覚させるものとして〈内面〉というものを獲得していったのではないか。そのような論が進んでいく中で、僕が考えているのは午後さんのドスケベシスター論におけるフーコーであり、高橋と平田の明治時代である。どうにも近代というものを考えずにはいられない。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。