2023.01.27

「誰からも大事にされてないなー」みたいな環境のなかでくたびれきって、体力や気力に余裕がないとき、他人へのちょっとした親切って明確に「減るもの」になる。たとえば電車の席を譲るとか、次の人のためにトイレットペーパーを替えておくとか、共用スペースの掃除とか、誰かのことを褒めるとか。

それらの行為が必要とする体力や気力ってほんのわずかなんだけれど、力の残高がジリ貧だとそのわずかすら勿体なく感じられて、使ったぶんだけ即時に見返りがあるような超短期的な利益に繋がる行為しかできなくなる。たとえば人を押し退けて席に座る、トイレットペーパーを使い尽くして放っておく、共用スペースを私物化する、誰かのことをやっかんで腐す。もちろんこれらの行為はほんの少し長い目で見れば自他ともにより貧しくなっていく悪手であるとわかりきっている。それでも、「いままさにゼロになりかけてる自分の気力体力をなんとか保ちたい」という切実な必要にとらえられているとき、ちょっとした親切すら「贅沢」になってしまう。

「いいじゃん、減るもんじゃないし」と気前よく親切を振る舞うためには、親切に必要な力が取るに足らないものであると思える程度の余裕が不可欠。

多くの人が疲れてて、お金もなくて、余裕が確実に削られていくと、どんどん目先の必要の比重が大きくなって、荒んでく。物心がついてからの20年間、そういう状況が進行していくのをずっと見せつけられてる気がしている。

そろそろお風呂をあがる奥さんのために乾いたタオルを足拭きマットのすぐそばに準備しておいてあげるとき、こういうなんでもない気遣いすら損した気持ちになるときあるよな、と思ってそんなことを考えた。食後の皿洗いとか、靴をちゃんと揃えるとか、そういうことができないときはよくよく寝たほうがいい。

けさは寒くて起き上がれなくて、午前休にしてすやすや眠った。いくつもの夢を見た。そのひとつでは僕は通勤電車を途中下車してあてもなく散歩していた。いつのまにか国会議事堂前のデモの列に混じっていて、問題は僕が料理の途中で家を出たから片手に包丁を持ちっぱなしだったということだ。デモに包丁はまずいかもな、と焦る。前を歩くのは国分太一で、国分太一はとても気さくで周りの人たちに声をかけて現場の論点を確認していた。国分太一が僕の方を振り向いて胸元に抱えている包丁に気がついたらどんな顔をするだろう、そう考えると恐ろしくて一刻も早く行進から外れたかったのだが人の流れの密度がすごくてどうにもならない。

奥さんが美味しいコーヒーを淹れてくれて、ようやく起き上がる。たっぷり眠ったから気分は爽快。ああ、会社行きたくないなあ、と思う。「仕事」って誰かへの親切のことだから、なんかもう余裕がある人だけが仕事するみたいな世界になってくれよと思う。生活の必要に追われて従事せざるをえない「労働」に毎日確実に尊厳を削り取られていく事態を「仕事だから」で見過ごす欺瞞、まじでムカつく。

代官山は雪。

仕事終わりに保坂和志と郡司ペギオ幸夫の対談を見にいって、ペギオはごきげんな名前と文章のわりにシャイなのだなと面白かった。お互いの距離から手探りするような会話で、それでも充分のびのびとした話をしていて、聞いているだけでこちらもゆるんでくるし楽しくなる。徹底的に受動であることは、どちらもある、と、どちらもない、ふたつの二律背反が共立する状況を呼び寄せる。静的で理念的な知と動的で経験的な知がそのまま並走する『ハレルヤ』という小説もまた、東京駅地下に幻視するピクミンの世界の記憶に通じている。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。