2023.01.30

深刻な日記疲れ。書くのはいいのだが、読むのはしんどい。読み返していて面白いのは、21年の僕は蛹のなかのドロドロのような文章を書いている。文意を取りづらいのはいつもなのだが、文体が荒れているというか、型崩れでみっともない。とにかくあがいている、という印象をもった。でも、この年に不細工に積み重ねた文字群が、明らかにいまの僕のモードの基礎になっているのもわかって、やはり生成の過程というのはぐずぐずであるな、ということを納得させてくるようなだらしなさが、しかしこれは読むほうもかなり苦しいというか、読む気が失せるのではないかと思ってしまうが、そもそも僕の文章なんてずっとこんな調子だった気もするわけで、改めて下手糞だなと呆れてしまう。濁流を自ら呼び寄せて溺れるような引用の仕方、思考の混乱やねじれをそのまま文字列に置き換えるような一文のリズムの失調した冗長さ。ふっと力が抜けて、文章のリズムが息を吹き返し、校正がしやすくなるのは最悪運動会が終わり、ワクチン接種のめどがついた秋ごろからだった。今回の校正は生々しい成長痛を思い出すような作業で、自分を他人事のように面白がるというよりは、このころの憤りや苦しさや不安が、二年経ってもいまだに解消せず生傷のままであることに愕然とするような経験だから、読みながらどんどんと近過去にとらわれてしまうような重苦しさがあった。どうにかやり抜けてよかった。これが最後の日記本、と僕は思っているが、それはコンセプト不在の雑然をパッケージするのはたしかにここが限界であろうな、という予感があるからで、日々が遡及的に意味を帯びてくるというのは当たり前のことだから作ろうと思えば無限に作れるのだろうが、僕にとって本にする日記というのは書き始めの時点からある程度の計画が前提にあるものだ。日々をコンセプチュアルに過ごすための装置としての日記という性格は、いまとなってはすっかりなくなっている。ようやく毎日の無意味を取り戻せたというか、意味をでっちあげたうえでの記述がもつ欺瞞からようやく距離をとれるようになったような感覚がある。単純にもうくたびれてしまったというだけかもしれないが。

心身ともに重たくなっているのをどうにかさっぱりさせたくて、眼鏡を外して通勤してみた。僕は裸眼だと、視力どんだけなんだろう、いまの眼鏡の処方箋を観るとSPH が-5.0 とある。けっこうな近視だろうが、度数から視力に換算することはできないらしい。だからよくわからないが、ほとんど何も見えない、という状態で歩く。道行く人がぼんやりとした柱上の霞に見える。1メートルくらいまで近づくとようやく輪郭が把握できる。あらゆるものが滲んでいる世界を眺めていると、草木の情報量に驚く。人工物の色配置は単純で、どれだけぼやけていてもほんの数色の配列であることはわかる。でも草木は、葉だけでも幾種もの色があり、僕の劣化した網膜上でマーブル上に混ぜ合わされると複雑な模様として現れてくる。印象派の画家というのはド近視だったのではないだろうか。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。