2021.01.08(1-p.365)

昨晩奥さんに足の裏を揉んでもらったらてきめんに元気で、年末からずるずる起きれなかったのが今朝は7時半にはしゃっきり目が覚めて、部屋着用のダウンベストについて検討を始めていた。それで朝一でワークマンに行って1900円の洗濯できるやつを買ってきた。ワークマンといい、オールユアーズといい、僕は機能を買って纏うみたいなのがとても好き。服は便利な道具なので。可愛くてテンションが上がるというのも立派な機能だ。楽チンだったり、気持ちをしゃんとさせてくれる服を着ると体が大きな脳となり、全身でいい考えを進ませることができる。

私は今も鉛筆を使って文章を書いたり、絵を書いたりしている。同時に、コンピューターも仕事でたくさん使う。音楽制作のほとんどはコンピューターで行なっている。そういう意味では、両方の世界に触れている。そこですごく感じるのは、鉛筆とコンピューターとでは、自分の体の違う部分を使っているということ。鉛筆を使うときは、身体を大きな脳として使っている。 (…)コンピューターの何が問題かというと、身体の首から上しか使わないことだ。あとはマウスをクリックする指が一本あれば事足りる。つまり、首から下を全く使わないということは、人間の知能の大きな無駄遣いなんだ。なぜなら、人間の知能は頭の中だけで機能しているのではなく、体全体で機能しているのだから。 

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/35164/1/1/1

ローリング・ストーン誌のブライアン・イーノへのインタビュー記事がよかった。「作曲家として常に音楽を制作していると、音楽を聴くことがほとんどない。音楽を作りながら、他の音楽を聴くことはできないからね。」という発言で、そうか、音楽を作りながら、他の音楽を聴くことはできないもんな、となんだか面白くなった。ものを書きながら、他の本は読めるというかいつでもあらゆる本が参照されているけれど、音は一個ずつしか鳴らすことができないんだな、と思った。

『ネロポリス』はそこまでテンションが上がらず、のんびり読むことになりそう。きょうは結婚式の場面が不穏で愉快だった。「きみにも食道楽の世界を見せてやる。もはやきみは食べながら自分の墓を掘るしかないのだ。」

『商人たちの共和国』で引かれていた原洋之助『エリア・エコノミクス』を読み始める。これまたとても面白そう。グレーバーは文化人類学の見地から経済学を批判したが、原はこの両者を架橋しようとする。普遍的経済というのは思考実験の中にしか存在せず、それぞれの地域経済の固有性を無視せず明らかにすることこそが、画一的な経済合理性を利己的に追求する個人というフィクションを乗り越えるためのとっかかりだというような話。わくわくする。経済というのはモノを媒介とした人と人、人と自然の関係に過ぎないのだから、利潤を産まなければならないわけではないし、効率化を目指すのが本来なわけでもないのではないか。むしろ利潤や効率よりも、よりヘルシーな人づきあい、自然への配慮をこそ求めていかないとだよね、みたいな可能性が『大洪水の前に』のマルクスからも開かれていて、それ以来そういう話を僕は好んで読むようだった。そもそも効率ということで言うと僕は効率は大好きだが、それが資源の集中に向かうからいけないのであって、資源の分配をこそ効率化せねばいけないはずだ。そういう意味ではいまの経済はだいぶ失敗しているので、見直しましょうよという立場で、だから効率はよくていい。ただ、効率だけが至上命題ではないというのは忘れずにおきたい。

KID FRESINO の新譜が非常によくて、朝から聴き続けている。シングルで出ていた頃から、カネコアヤノとの曲がやたらに好きで、皿洗いなんかの時にしつこくかけていた。奥さんはカネコアヤノのことを「嫌いにならないようにがんばってる人」と呼ぶ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。