二年分の日記を校正するのたいへん。103万字くらい。『失われた時を求めて』の1/10くらいだと思えばいやいやそれでも多い。表記ブレなどは日記らしさではあるから残すにしても、読む際によくない躓き方をするような明らかな誤字はなるべく潰しておきたい。でもぜんぶは無理。ぜったいいくらかは見落とす。それを自分に許してあげないといつまでも出せない。こだわりと諦めの塩梅がいつも難しい。手元に置いておくといつまでも直してしまうのできょう一日がんばって、えいやと入稿してしまう。
「ここではないどこかへ」から「何者かになりたい」への変質について考えていた。どこかへ行けばそれで収まったものが、どこかで何か為さなければいけなくなっている。ここにもbe を圧倒するというか、その成立要件であるような面をして do がのさばる状況が反映されている。べつになにもしなくたっていいのだ、といいつつ僕も行為に取り憑かれている。本も作るし、ダンベルも上げ下げする。
昨年くらいからすこしだけまじめに自宅でできる程度の筋トレをしていて、枝だった体に申し訳程度に厚みがでてきているのだけど、自分のマチズモにかんしてはむしろ筋肉をつけたことによってより抑制できるようになったという実感がある。みずからの有害さを飼い慣らすにも体力がいるのだ。痩せっぽっちだったとき、見た目は可愛くて好きだったのだがいまよりもずっと疲れやすく、疲れると余裕がなくなってまわりに優しくできなくなったり、もっと悪いと不機嫌を撒き散らしてしまうことがあったのだけれど、いまはないといったら嘘になるが、だいぶ減った。
どうにも最近は、腕力や精力がふんだんにあり所作ががさつな者たちを「マッチョ」と呼び嫌悪するような、ひょろひょろした男たちがもつマチズモが、なまじインターネット上で声を得てしまったことでとても悪い方向に効力を発揮している感じがある。「おれたちは弱いからマッチョじゃない、なんならマッチョな粗雑さを憎んでいる」という自認のもとに繰り広げられる過剰に闘争的な言行。これらを男性性の問題として指摘するとこじれやすいのは、彼らの根底にあるのが男性性からの疎外や失敗の感覚だからなのではないか。じぶんのことを男らしいとは思っていない人たちは、カリカチュアされた「マッチョ」には敏感であるが、自身のマチズモを見過ごしてしまう。知らんけど。知らんけどっていうか、僕は中学生くらいのときそういうこじらせかたをしていた。
『変革する文体』を始めて、とてもわくわくする。文が社会変革の利器であった時代、いや、文の問題がそのまま経世の問題であることが露出していた時代についての本。現代社会を方向づける文体は、不在なわけではなく、良識のあるものたちが文学や思想としては体をなしていないと軽蔑するような貧しいものとしてあるのだと思う。IT長者や芸人崩れの身も蓋もない言動が、安き崩壊へと流れる文明の進行方向を追認し補強していく。この趨勢に抵抗するような文体は、おそらくまだない。見出しうるとしても、それはもはや本の形に綴じられるよりもっと手前のところにあるだろう。言文一致体は話し言葉から着想や材をとったが、いまはむしろインターネット上の書き言葉が話し言葉を規定しているから、パロールとエクリチュールの関係の反転はもはや自明のことである。話される言葉よりも書かれる言葉のほうに直接的に左右される情動を、あらためてべつのかたちで律するような運動を喚起する文体。そういうものがいま必要なのかもしれないという気持ちになってくる。
