2021.01.11(1-p.365)

700頁超の日記本『プルーストを読む生活』をちびちび読み進めながら、日記なのに飽きずに読ませる秘訣を探っている。まず一応の目標とルールが最初に提示されていて読者もそれを追いかけられる、日記のなかに自己分析的なメタ思考がある、読書家らしい特別な語彙をもっている… たぶん、出来事とその一次反応を書き留めただけでは、それはありふれた日記になる。この日記は自身の一次反応について他のさまざまなテキストを引きながら二次的な分析を披露することで、同じような経験をもった読み手がある種の「答え合わせ」のような快感を得ることになるんだと思う 本書中のそれは作為的なテクニックというより、書き手の思慮深さに加えて思考のプロセスを省かず記録する丁寧さのあらわれ、という気がする。さあどうやってこの技を盗もうか…

https://twitter.com/_qeaq/status/1348452764687351809?s=20

遅起きしてTwitterを開くと上の連投が目に飛び込んできて、とても嬉しい分析だ……、と感激した。日記を書く時、「出来事とその一次反応」の私的な記録を、ただ私的な記録として開示するのでなく──それでは生活そのものの特異性みたいなものそれ自体をコンテンツとして切り売りすることになる──あくまでありふれた日々をどこまで「飽きずに読ませる」か、をかなり意識していたので。

誰‪もが共訳不可能な別個体であるのは当たり前なので、わざわざ破天荒だったり過激だったりするような独自性をアピールする必要はない。あらゆる個人の日々は尊い。その尊さはべつに他人との差異によって決まっているわけでもないし、ぶっちゃけ人が起きてから寝るまでの出来事に大差はない。生活で他人との差別化を図って、生活の内容それ自体に面白さを求め出すと、穏やかな日々を脅かしかねないし、‬生活を商品の論理でしか把握できなる恐れがある。僕はそういうのは好みじゃなかった。自分はこんなに他人と違うんだよ、面白いでしょ、みたいな自己開示は端的に言って下品だとすら思う。自分をあまり売り込まない方がいい。たとえ高値がついたとしても、売買可能なもの、商品価値を高めるために調整可能なものとして自分の生活を扱わない方がいい。そこから他人のことまでコンテンツとして扱い出すまで、ほんの数歩だろうから。

ここまで書いて、では僕の奥さんを書く手つきにそうした欺瞞がほんとうにないのかと疑問が湧く。どうだろう、自信満々に自分の潔白を言うことはできない。でも、この日記に出てくる奥さんはだいぶフィクショナルな存在ではあるはずだとは書いておこう。じっさいの奥さんのほうが数段すてきな人間だからだ──ただ、もちろん万人に愛される人というのは存在しないので、これはあくまで僕の主観的判断であり、他の誰かがどう思うかは知らないし興味もない。

書き手のちいさい自意識をただ露出だけではあまり面白みはなく、もちろんそれだけで凄い人もいるだろうが、それはある個人への野次馬的な興味ではないだろうか。誰もが起きてご飯食べてまた寝てとほとんどの時間は地味でなんでもなく過ごしていることこそ面白いし、一人でいる時の顔はみんなけっこう無だ。その無をことさらに美化する必要も、秘密めかす必要も、道化にする必要もない。なんでもない顔をして、なんでもなくいる。それだけでたぶん十分に面白いし、なんでもない顔をして人はけっこう変なことを考えたりしているものだと僕は思っていて、そういう変さをこそ僕は読みたかった。日々の表面的な行動には興味がない。行為に対する評価というのはたとえば給料なんかで表せてしまう。そんな簡単に数値化できるものが面白いわけがない。もっとえもいわれぬ、一銭にもならないどうでもいいことこそ日々の可笑しさだし面白さだしかけがえのなさだ。僕の前でレジを打ってもらっている人が今どれだけの所得でどんな人間関係の中にいるかよりも、お風呂に入っている時なんかにふと浮かぶ風景だったり言語化されそうでされない日々の思想のようなものだったり、そういうもののほうが見てみたいと思う。

日記の可読性が高過ぎることは危険でもあるはずで、じっさいの日々の思考や感覚をなるべくちゃんと書いていこうと思えばどうしたってそれは悪文になる。可読性の高い文章というのは要するに伝達しやすいように画一的に均された文章であって、個々人の体のでこぼことした癖のようなものはないほうがいい。しかし日記については──ほんとうはあらゆる文章がそうだと思っているのだけど──そうした癖こそが要だったりする。けれどもただ癖がすごいだけでは、結局自分の特異性みたいなものそれ自体をコンテンツとして切り売りすることに繋がりそうだ。だからこそ日々読んだ本や、奥さんの言ったことや、遭遇した出来事などの他者をなるべくそのまま招き入れる。自分に都合のいいように他者を使わないためにも作為の余地を残さないで、そのまま招き入れなくてはいけない。だから僕は奥さんに言われたことや本の内容はそのまま書き写すように書く。そのうえで、自分の変容を書けばいい。他者を自分のために利用するのではなく、他者に影響され、巻き込まれながら書くこと。そうすることで、自分の体の癖だけでなく、他者によりさらに文章のブレが増幅される。そういうのがいい。そういう変な文章、読むの楽しい。少なくとも僕はそう思っていて、この世に自分だけが感じたり考えていることなんか一個もないのだから、同じような人は少なくない数いるはずだった。売りやすさや伝わりやすさだけを考えていては、そういうものは書けない。商品の理屈を無視したとしても、文字という共通の道具を使っている以上、誰にも届かないということもまたあり得ない。

 

僕はそんなことを考えながら日記を書いているらしかった。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。