2023.03.15

新宿の紀伊国屋書店で国書刊行会の冊子をもらう。これで二種類とも手に入れた。ブックカバーの応募ハガキももう出した。宮崎さんがツイートしていた『現代評論キーワード講義』を七階で買う。学習参考書の類を久しぶりにあれこれと眺めたけれど、たいへんわくわくする。なにをやるにしてもこの辺りから勉強し直すのがいちばんだろうと思う。棚に挿さっている本をてきとうに抜き出してぱらぱらやるとどれも切り口あざやか説明も簡明で、ごちゃごちゃした頭の中を整理するための掃除道具が一式揃っているようだった。二階で、きのう岸波さんに教えてもらった大江の岩波の短編集も買う。大江読んだことないんですよね、と正直に白状すると、それなら、と推してもらった一冊。なんだかたっぷりしているし、これでしばらくは充分だろう。

ちょっとした隙間時間に柿内さんの日記を数日分読む、ということをしていて、体感的にはずっと柿内さんと一緒に喋っているような気がしているのだが、実態はそうではないので、「ええ?!」という戸惑いが常にある。 

https://twitter.com/wakasho_bunko/status/1635881821039923205?s=46&t=P8naJHLI5UvXF4TGuRLbuw

わかしょ文庫さんがこのようにツイートされていて嬉しかった。そして次のようなことに気がついた。

僕は日記を毎日「ねぇちょっと聞いて!!」という態度で書いている。教室の片隅で、寄り道のフードコートで、深夜の他愛もないメッセージで、他愛もないことを延々と喋っているような感じで読んでもらえるならそれがいちばんだし、それが不気味だったり「知らんがな」でありうるのもよくわかる。でも僕は相槌を打ちながら聞いてくれる人がいると信じて書いているし、その楽しげな相槌がそのままの形でこちらまで返ってくることは稀だけれど、たしかにどこかでなされているのだと信頼するから次の日記が書ける。いつかどこかでこれを読む人と、僕は直接お話しできないことのほうが多いのだろうけれど、それでも日記はいつも、その誰かとお喋りするような気持ちで書いているから、この文字列が、これを読む人にお喋りしているような感覚を喚起したのならそれほど嬉しいことはない。

僕は文章はとにかくだらだらさせる。「オチは?」とか「要点は?」などという味気ない追求を無視して、ただ読んで書いて、聞いて話して、考えつづけることの楽しさを喜ぶ態度をゆずらない。機嫌よくちゃらちゃらとおしゃべりをする。そのように読むし、書いていく。べつにいつだって聞いてもらえるとは思っていない。もし受け取ってもらえたとしたら、それは受け取ることができた人の方がすごいのであって、僕はただ落ち着きなく喋っているだけだ。

誰に受け取られるか確信がないまま、それでもまあ誰かには届くだろうと信じる。そういう塩梅で書いているからか、僕自身、誰かの「ねぇちょっと聞いて!」をなるべくいつでも受け取れるようでいたいなと思う。疲れていたり、余裕がないと本は読めない。弾けるようなお喋りの嬉しさを、わずらわしいもののように感じてしまう。けれどもやはりそれは不健康なのだ。いいよ、なに、話を聞かせて。そういう態度を長持ちさせるためにも、僕は無理をしないし、よく寝るし、はやく帰る。話が弾まない人もそれはいる。そういう人は、よそで話すだろうから僕には関係ない。話が止まらない人というのがいる。僕は本を読みながら日記でそれを一人でやる。誰かの話を聞いていると、こちらも話したくってむずむずしてくる。そしてほどなく炸裂する。話しているうちに思いつきが次から次へと到来して、脱線に次ぐ脱線が連なっていく。そうやってぺちゃくちゃぺちゃくちゃととめどなくおしゃべりが続くようにして読んで書いていけたらそれでいいし、そのように読まれたい。

大澤真幸『〈世界史〉の哲学』の中世篇もそろそろおしまい。これもまたおしゃべりを誘発する本だ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。