きょうは僕は何が読みたいのだろう。それがわからない日で、わからないな、と思いながら『ネロポリス』と『生活の発見』と『エリア・エコノミックス』の三冊を漫然と行ったり来たりしている。『ネロポリス』はまじでセックスかグルメにまつわる猥談に彩られていて、とにかく誰もが入れるか出すかしか考えてないのでちょっとげんなりしてきた。それが面白さでもあるのだろうが。菊地成孔のような下卑た大苦笑で楽しめる日も少なくないのだが、今日は違うようだった。「ローマ人は決して食卓に就く機会を逃がしはしない。」というところでちょっと笑った。『生活の発見』は大好きな『荒野へ』が参照されている箇所で、『荒野へ』は大好きな本なので、ハイそれ解釈違いですッと元気よく心を閉ざす場面があって自分の狭量さに笑えた。べつに共感したくて読んでいるわけではないが、大切な作品についての解釈闘争については共感とかでなく自分の自分たる部分の防衛だった。原洋之助『エリア・エコノミックス』はほんとうに面白い本で、人類学と経済学の対比を「経験的多様性への愛着」あるいは「嫌悪」という整理をしているところで、おお、となった。助かる。
無性におはぎが食べたくなって家を出る。コンビニになくて駅前まで出るからついでに漫画の品揃えに関してはまあまあの最寄りの本屋で『バクちゃん』の2巻を買う。そのまま薬局で用事を済ませ、帰り道半ばでおはぎを買い忘れたことに気がつき迷ったがスーパーまで引き返す。なにやってんだろ、と思う。気晴らしにラジオでも聴こうと思う。今年になって早見沙織が参加するようになった早朝のFMラジオをradiko で再生する。最初の一言でハッとする。僕はほんとうにこの人の声が好きなんだな、とわかる。そしてそれはラジオっぽいからだったのだ。この声で深夜の交通情報を聴いたことがある気すらする。そんなラジオの似合う端正な声で野蛮なことやだらしないことを言うのだから僕はこの声が出ているアニメに当たると嬉しくなる。でもよく考えたら、出ている作品の系統が僕が観てきたものとそんなにかぶっていないようで、たくさんは観ていない。そもそもアニメを見るようになったのも奥さんと暮らし始めてからで、ここ四、五年のことだ。いま改めてWiki を眺めていたら生年月日が一緒だった。前も調べて奥さんに報告して前も言ってたと言われた記憶がぼんやりあるから今回は報告しないでおく。でもこうして書いてしまった。
帰って『バクちゃん』を読む。オリジナル版の時はクライマックスだったコンビニ前のパーティのシーンでもう泣きそうだった。寒い日に読むとつらいところが身に染みるようで、しかし安易な同情で気持ち良くなっていいような作品でもない。僕はこの作者の『めくるめく世界』を漫画にしたやつがとても好きで、だから『バクちゃん』にもラテンアメリカ文学を感じる。ありえないような飛躍やおかしな誇張が、むしろ日々の襞をやわらかく掬い取っていく。その手つきに日本の漫画でマジックリアリズムを消化しようとするとこうなるんだな、とわくわくする。思えば「かわいい」とは現代日本でも力を持っているアニミズムのようなものかもしれない。「かわいい」を通して日常に霊感を取り戻し、ナンセンスな飛躍や脱線がより一層他者と自分とを隔てる差異の大きさを引き立てる。安易な共感や同情はありえない。こんなにも個々人は違っているからだ。けれども、それだからこそ、異なりをお互いに引き受けあって共にあることを試行できる。いい漫画だなあ。