2021.01.15(1-p.365)

アレッポからたどり着いたバリまたはタイ、インドネシアの地域経済。『エリア・エコノミックス』がとてもとても良書で、これこそ資本主義リアリズムに対する一種のアンサーになりうるのではないかと思えるような一冊だった。初出は1985年。ちょうど東南アジア諸国にまで新自由主義的経済システムおよびその思想がインストールされきったころだろう。しかしまだその当時は、市場に最適な姿に画一化されきっていないそれぞれの土着文化がまだ確認できていたか、少なくともその記憶がまだ鮮明だったはずだ。絶望的としか思えないほど行き過ぎた現状への回答はむしろその起点にまで遡ることで見つかるものなのかもしれない。

そもそも「経済」と「資本主義」は同じものではない。手許の新明解(第四版)によると「経済」とは「[経国済民、つまり国を治め人民の生活苦を救う意]社会生活を営むための、物の生産・売買・消費などの活動。」とある。人民の生活苦を救うですって。経済政策といえばもはや特権階級の利潤の追求しか意味しない現政権の現状を思うと泣けてくるほどまっとうだ。

では「資本主義」とはなんだろう。原はこう説明してくれる。

資本主義とは、なんらかの意味での特権的能力をもった経済主体からなるシステムである。その能力は、資本調達力、情報収集力、広告宣伝力、技術開発力、製品差別力、政治力にまでおよぶ。そして、資本主義には、物的なものから精神的なものに至る貨幣経済済展開のための基礎的諸条件、とくにそれが従うべきルールの体系を能動的に革新する他の階層がもちえない特権的力が備わっている。このルールの体系とは、単に法体系だけでなく、言葉づかいやエチケットなどの文化体系をも含む。こういうルールを変更する力をもったプレイヤーは、単なる「経済ゲームのプレイヤー」ではありえない(佐藤)。

歴史的にみて、産業資本主義とは、商業資本主義がつくり上げていた市場取引と信用取引のネットワークのなかではじまり、その原理は本質的に商業資本主義とは異質なものではない。しかし、まさにそのために、流通の埒外にある産業資本主義は資本の論理にとっていささかやっかいな存在なのだ。産業資本主義においては、労働者を大量に雇用するという生産の場が、活動の中核となる。この労働過程は、人と人とが日常的に共に働く密なるコミュニケーションが必要となるために、言語・慣習・生活様式といった地域性をもつ文化からは決して自由になれないのだ。クリフォード・ギアツも、インドネシアにおける企業組織の形成に関してこの点をはっきりと議論していた。のちにくわしくふれるが、産業資本主義にとって急所である労働力の取引は、「市場原理が適合しないか、適合するにしても困難をともなう」(ヒックス)ものである。ブローデルが的確に指摘しているように、まさに商業と金融こそが、ジェネラリストが担う資本主義にとって、その本性にピッタリと適合した「自分の領分」の活動であるのに対して、生産の場はどこか「他人の領分」にとどまるのだ。

資本主義の本性は、競争ではなく独占にある。資本主義的商人は、その下の階にある流通経済を透明な仕組みにつくり上げる「交換の道具類」に体現されている取引機構を、自己の利益のためには破壊する。そのプロト・タイプは、中世イングランドでみられた、伝統的な公設の市の傍らでつくり上げられた私的市である。商人たちは、貿易・金融の管理など多面にわたる活動をとおして、自らの経済活動を組織化しようとする。そして、彼らは、自らがつくり上げた商業ネットワークを、独占して他の者に利用されないようにするためにしたたかな排他的グループを形成する。商人とは自らが収集した有用情報を独占的に所有して、取引を独占しようとする傾向を常にもつ存在だ。数少ない同業者だけがあつまり、ギルドなどの仲間組織をつくり上げ、ときには金銭を支払ってでもそれを権力に公認させて、その業種への新規参入を阻止させようとする。端的にいって、資本主義とはあくまで「少数者の特権」である。

原洋之介『エリア・エコノミックス──アジア経済のトポロジー』p.210-212

この説明を読むといま巷で言われる経済というのがほとんど資本主義のことでしかないことがよくわかる。そして資本主義というものが本性上「少数者の特権」であるのだから、行政のふるまいは資本主義的には理にかなっているとも言えるのであろう。しかしそうして少数の自閉的集団の利益を蓄積、最大化しようとする資本主義的独占者たちは、金融や商業の場ではくつろげるが、生産の場ではどこか居心地が悪い、とさらりと指摘されている箇所が多分かなり重要だ。

独占者たちは利潤を生み出すゲームのルールを設定することはできるが、そもそもゲームの基盤となっている物質世界の生産には関わっていないのだと原は言う。たとえばものづくりの現場での協業や協調というものが実現するものを掠め取ったものが利潤だということだ。DtoC みたいな動きがすこしだけ希望なのは、こうした掠め取りの余地を少しずつ削り取っていくからなのだ。

利潤追求のゲームはそれ自体の存在要件を、自らは産み出しようもない物質的基盤のほか、道徳・倫理といったものにまで負っている。まさにグレーバーがゴールドマン・サックスのオフィスにもコミュニズムはあると喝破したように、そのゲームを安心して駆動するためには、相互の信頼や損得を考慮しない無条件の扶助が不可欠なのだ。

道徳・倫理は、与えられた与件であるわけではない。それは、具体的な生活のなかで形成され、意識されてはじめて維持されていくものである。それは、ポーコックがいうように、「作法、ないし生活様式マナー」である。マナーとは、私的所有権といった権利にもとづく裸の自己利益追求行動によってではなく、また高貴な利他主義をともなう理念的徳性によってでもなく、その両者の対抗のなかから経験を通じて、鍛え上げられてつくられてくる「社会関係が個人を導いて発展させる能力」である。社会の多数によってそのようなマナーが共有されていけば、必ずしも顔見知りではない間柄であっても経済取引を安心してすすめられるようになる。このようなマナーが共有されてはじめて、誰との取引であってもだましたりだまされたりすることは少なくなり、商業活動の秩序が維持されてくることになる。

商業という市場経済の要の位置にある活動の維持に際してすら、マナーが必要なのだ。生態環境の維持・保全と調和しうるような非市場的な協的資源利用制度には、その活動への人びとのコミットメントが必要不可欠となる。そういう行動規範は、やはり経験を通じてしか形成され発展させられてこないものであろう。そして、そういうマナーには、それぞれの基層社会の個性のようなものが色濃く反映せざるをえないはずだ。

同書 p.225-226

ここまで考えてきてまた暗くなるのは、現状行き過ぎた資本主義──ここでは果てのない利潤の追求主義くらいの意味──は、自身の存立要件でもある他者に対する信頼というものをも毀損しきってしまったように感じられるからだ。いま僕たちは隣に住んでいる人がちゃんとズルをしない人かどうかみたいなことすら信用できないでいるし、手に手を取り合って土着の循環型経済を作っていこうなんてナイーヴに過ぎる楽観としか感じられないでいる。

ところで、一九世紀はじめに近代に入って以降私たち人類はあまりにも、大地からも共同社会からもはなれて個々バラバラに生きることを奨励した解放史観にとらわれすぎていた。近代の普遍主義思考とは、前・近代ないし封建制の桎梏からの個人の解放だけを一方的に評価するイデオロギーにすぎなかった。近代に入って以降個人の確立や尊厳だけが喧伝され、封建的・前近代的束縛から、そしてついには家族からも物理的・精神的に解放されれば、自己責任で活動できる自由な社会が確立されるというユートピア・ヴィジョンが、世界を席巻してしまった。

その結果は何であったか。近代のこの解放史観イデオロギーに洗脳されてしまった結末として、現在私たちは、他者との信頼感や連帯感を失い、ともに語るべき物語も失い、合理的個人主義という孤独で危険な社会の仕組みの中に立たされてしまっている。

こういう近代的解放史観は、三木亘がいみじくもいっているように、しょせんは「コンクリート詰めのちっぽけな西欧的自我」という、高緯度ゆえに貧しかった生態環境の西欧のローカルな文化を背景としたものでしかなかったのだ。そこには、「母なる大地」「母なるガンガ」といったアジア各地に存在しているような感覚はまったく存在していない。西欧にくらべると低緯度で豊かな生態環境をもっていたアジアには、まったく別種の自我観が存続していた。中国を中心とする東アジアには、父祖と児孫を辱めないという行為規範をもつ宇宙的生の共同体の一員という自我観が存在している。また、インドを核とする南アジアには、動植物や餓鬼畜生あるいは神々とも輪廻転生する生類の一員といった自我観がある。また、中東を中心とするイスラーム世界には、ネットワークのごとく世界にのびのびひろがるアラビアン・ナイト的な自我観がひろがっている。このように、地域研究は現代人がいつの間にか当然のこととして疑わなくなってしまった西欧近代起源の社会・歴史観を、的確に相対化させてくれる。自らが生まれた故郷を否定しグローバリズムという汎世界的事象だけを重視する普遍主義思想が世界を席巻している現代こそ、あくまで基層社会とその伝統にこだわろうとする地域研究に期待するしかないのである。

「歴史が終わった」とされた一九九〇年代に入って大きな政治イデオロギーの対立がなくなり、世界のなかでその時々の貨幣利得をめぐる経済競争だけが突出して重要な問題となってしまった。こういう時代の流れのなかで、各国・地域はすべて等しく、「道徳や政治の規制から」解放され自由になって、経済的収益性・技術的効率性という単純な基準だけで「つながれる」べきであるという市場原理主義思想が、世界秩序を律する唯一のイデオロギーと化している。ジョージ・ソロスが端的にみぬいているとおり、私たち人間の行動は自らが内にもつ思想ないし理論から強い影響を受けている。人びとが「市場の魔力」を信じるために、私たちの住む社会のなかで資本主義の及ぶ範囲が拡大していくのだ。そして、人びとの行動と社会の変容に影響を与えるために、思想・理論は真実である必要すらないのだ。残念ながら、こういう思想・理念の肥大化の結末は、東南アジア諸国をも含めて世界各地域でのバブル経済と環境破壊という、資本主義の過剰化と家族・地域社会の解体とであった。私たち現代人は、「市場の法則」にそって生きるしかないのかもしれないが、それだけで安定した生活が保証されるわけでは決してない。

同書 p.231−233

いくら資本主義的なシステムが生存に不可欠なように見えようとも、それは一個のローカルルールに過ぎない。ジャングルでは同じことは言えないし、誰しも潰せば汁が出る。しかし今一度自由な個人という幻想から脱して共同体への一体感へと回帰しようというのは、それはそれで現代の病であるナショナリズムの素朴に過ぎる肯定になってしまいかねない。この辺に関してこの本の原はあまりに無防備すぎるように僕には思えた。

いまさら個人の自由は手放せないし、なんならまだその実現は不十分なくらいだ。個人主義を「コンクリート詰めのちっぽけな西欧的自我」へと矮小化させることなく、むしろそれをより先鋭化させた先にこそ「他者との信頼感や連帯感」の再達成はあるのではないかと僕は予感しているのだけど、ちょっときょうは引用を張り切りすぎて疲れてしまったのでまた今度。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。