2023.08.12

Ryotaさんが先日飲み屋でおもしろおかしく魅力的に話してくれたマルチバース落語。これがまたかかりますよと声をもらったので、きょうは吉祥寺まで足を伸ばした。武蔵野公会堂で立川談笑一門会だ。吉笑「八五郎救世」目当てで行ったのだけれど談笑師匠の「佃祭」が圧巻だった。うん、うん、と言い淀むようにして一向にリズムが掴めない序盤、筋を忘れちゃったんじゃないかとかすこし不安になるがまさか真打がそんなことあるまいと不安定なまま見続けていくと、語りのヨレと叙事の信用ならなさが絶妙に噛み合っていく。夫を亡くしたと思い込んだ妻が切々と独りごちるところでは思わず涙ぐんでしまって、ほろりと一粒涙が溢れると同時に「ただいま」とくる。ここで一気に弛緩して大笑いしてしまう。しかし話はここで終わらず、彼岸と此岸のあわいで二転三転する。「八五郎救世」のSF表現にせよ、「佃祭」の叙述トリックにせよ、客の側で補完するべく託されている余白をじつに巧みに使ってくる。マルチバースとは、聴衆それぞれが噺を聴きながら思い浮かべる情景それのことなんだと吉笑はいう、客への信頼というか、客の固有性を信じるその描写はやはりぐっとくる。そのバースはしかしたった一言で様相をがらりと変えうる曖昧で不安定なものでもある。この塩梅の妙がすごかった。言い淀み、溜め、転換、沈黙がこうも効いてくる。きくに「佃祭」の原型はもっと素朴な情けは人の為ならずみたいな教訓噺らしいのだが、人情噺とみせかけて怪談で、しかしやはり胸を打つ人情噺に収まる、かと思いきやいきなり御巣鷹山の名が出て鎮魂の儀式めいて終わるという、非常に重層的なものに仕立てられている。こりゃすごいや。

朝からあまり調子がよくなくて、実家に帰っていた奥さんと合流しても楽しくできなかったのだが、終演後は元気いっぱいで、立ち食い寿司屋で一杯やって帰ることにしたのだが、寝不足で生魚はよくなかったか、帰りの電車からずっと腹痛で脂汗を滲ませていた。いまもだいぶキリキリと痛い。はじめは膀胱かと思っていたが腸にまで上がってきた。あとはガスが出切ってしまえば安心だろう。帰りの電車ではあかるいギャルが隣のマダムたちに、まじお姉さんたちに声かけてよかったです、わたし酔っ払ってもうわかんなくなっちゃってて、どこで降りればいいとかすごく不安で、え、神田で降りちゃうんですか、わたしは、えっと、次で降りればいいんですね、がんばります! とほがらかに話しかけていた。あのチャーミングな知らない人が、ちゃんと家に帰れていたらいいな。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。