2023.08.13

酒井泰斗・吉川浩満「非哲学者による非哲学者のための哲学入門読書会」。きょうはマチネとかぶると思って会場参加を見送って、アーカイブで視聴のつもりだったのだが、朝起きてからソワレであると判明した。あと五分で始まるところで、ZOOM を起動してリアルタイムで参加。レジュメも読解メモの書き込みもできていなかったけれど、本は繰り返し読んでいる。手元においてあれこれと考えを巡らせながら見る。集中力があやしくなるとすこし手遊びを始めても問題ないからリモートはいい。

奥さんと電車に乗り込んで、きょうの感想からあれこれと敷衍しながら雑談をしていた。以下はそのときに話しながら考えたこと。

僕たちが本を「読めない」というとき、なにか読解に必要な語彙や知識の不足しているのではないかと考えがちだが、むしろテクストに書かれていない余計なものを勝手に足してしまっていることのほうがずっと多い。読み手側があらかじめ持っている個人的な文脈や関心をテクストの側が共有しているはずがないのだが、ついつい本を読むとき自分に予断を許してしまいがちなのだ。本を読むというのは書いてあることを読むことなのに、書いていないことを読んでしまうのは、文字の前に自分を読もうとしてしまっているから。「こんなことは認められない」「自分は違うと思う」などと反感を覚えるとき、そもそも人はもとのテキストを読めているだろうか? たまたま目に留まった一語から勝手な連想を広げたり、著者と共有しようのない個人的な事情を読解の前提として使っていたりしないだろうか。人の話を聴けない人というのは、けっきょくぜんぶ自分の話にしてしまう。「相手はどんなことを、どんな目的意識をもって話しているか」を考える場面で「自分はどう思ったか」だけに拘泥してしまうからそうなる。まずは相手の話している内容を理解すること。価値判断はそのあとにはじめて可能になる。本を読む時もだいたいこれと同じだ。読むという作業を判断することや感想を持つことから徹底的に切り離すこと。「自分だけの個性的な読み」みたいなロマンティックな幻想を捨て、ひたすら没個性的に書いてあることを書いてあるままに読むこと。じつはこれこそ、訓練しなければできないことなのだ。ここにいま参加している読書会の意義がある。書いてあることを読むことより、書いていないことを読まずにいることのほうがずっと難しいということを繰り返し思い知らされるから。

そしてここから自分の問題に引きつけていくならば、問題は僕じしんがものを書くさいには書いていないことを読んでしまうという人間の認知特性をかなりの程度あてにするような書き方を採りがちなことだ。つまり、会で目指される精読に耐えうるようには書けていない。プルーストのいうように、人はものを読むことなどできず常に自分自身を読んでいるのだと嘯いて現在の方法に居直ることも簡単であるが、いつまでも手癖とセンスだけではいけないとも切実に考えている。自分としては自分よりも博識で才気煥発な読み手を想定して精一杯のところで書いているのだが、そんな難しいことをしようとせずに、誰が読んでもそう読めるというようにして堅実に書く訓練を積むべきだろう。

渋谷に京都のビリヤニ屋が催事できていて、それを食べにいく。鳥出汁で炊いたのに茗荷や納豆を合わせるやつと、辛めのキーマを桃やマスカットと合わせて食べるやつ。バスマティライスの海鮮丼もつけた。どれも楽しく美味しかった。まだまだ食べたことのない味の組み合わせがあるというのは面白い。食べているあいだ、その読解の糸口をさぐるように頭がフル回転する。

ソワレ。銀河劇場で『舞台 弱虫ペダルTHE DAY 1』大楽。終演後、言葉少なに会場を後にして、奥さんが開口一番に、結構モヤモヤしたんだけど、と言うので、ケッ懐古ばかりの古参がよ、目の前にいる、ほんらい最愛ラブリーな人が、ペダステの初演をリアルタイムで体験している狂おしいほど妬ましい人物として目に映って、いまは絶対にこの人と話をしたくないと心のシャッターを締め切ってしまった。それでむっつりと黙り込んでひたすら感想ツイートを作成した。僕じしんが初演の輝きを眩いものと思っていて、じっさいにそれを現場で見た人の感想を聞いてしまったらあっさり塗り潰されてしまいそうだったから。まずは自分の言葉で整理したかった。のちに奥さんからオタクとしては百点だがデートとしては零点と評される暴挙である。おおむね次のように書いた。

村田充の御堂筋翔 、鈴木拡樹の荒北靖友、郷本直也の金城真護、玉城裕規の東堂尽八……、映像でしか観たことがなくとも伝わる圧倒的なベストアクトをいくつも生み出した舞台をリブートすること。初演には届くはずがないと誰もがわかりきっているわけで、しかしその影を思い出さざるをえないほどに脚本や演出の基本線は忠実になぞられていく。だからこそ先人を安易に真似ることだけはするまいという俳優たちの演技プランの勇敢さが際立つ。あのままを再現できなくとも構造は引き継ぎ、人間だけが変わって、新しく体験の近似値をつくりだそうとする。その無謀な誠実さに、初演に間に合うことのできなかった僕は胸を打たれる。じっさい百人抜きも、山岳賞争いも、ボロボロに泣いた。でもいちばん泣けたのはカーテンコールでDAY2の上演決定が告知された瞬間にあがった歓声だ。とにかくこの舞台はまた別のものとして受け容れられていくんだな、と思えた。今後も初演の映像を味のなくならないガムのように噛み締め続けるであろう僕を置いて、ペダステは生の舞台として続いていくのだ。あれもこれも思い出しては比べてしまう、初演の亡霊に取り憑かれてしまった僕は、静かに成仏していくのみだ……

いや、じっさい御堂筋くんも荒北も金城も悪くなかった。僕は原作を知らないから初演との比較しかできないけれど、舞台で彼らをやるとき、こういうのもありだなと思えた。「悪くなかった」みたいな消極的な評価しかできないところに、僕の初演の乗り越えてられなさが滲んでしまうのだが。あのペダステを生で観てみたかったという思いは叶いようもないのだが、ペダステを生で観るという経験はさせてもらえた、ひとまずはそれだけでも充分すぎることじゃないか、みたいな気持ちです。

家に帰って夕食を済ませたあとは冷静さを取り戻し、最愛ラブリーな奥さんと感想を交換しあった。それでさらに深まった感想ツイートがこちら。

『The Cadence!』と比べたらキャストそれぞれ格段によくなってるんだよな。特に坂道と巻ちゃんは見違えた。あと今作では物販で自販機Tシャツ売ってるくせにパワーマイムは限界まで削ぎ落とされており、レース表現の足捌きや重心の置き方もより見せることを意識したものになっている。レースを群舞として描く、肉体の配置と余白で見せる意識は鯨井版のほうがしっかりしていて、シーンそれぞれに絵画的な快を帯びさせるというところは、なんならシャトナー版よりもよかったかもしれないが、いかんせん映像でしか観ていないとカメラが寄りやがるので、初演の全景を観ないことには……

けっきょく奥さんは黄金時代の回顧に取り憑かれて目の前の芝居に対して盲目になるようなことはなく、きょうも鋭い感想を連発したので、僕はふーんと聴きながらほとんど丸パクリのような追記をしたわけだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。