2023.09.14

三度目の夏。エーステのために降り立った立川は、和らぎ始めていた陽射しが盛り返すように激しく、日傘がなければどうにもならなかった。きょうは道中からずいぶんと緊張していた。なにしろ座席が最前なのだ。座席には黄色い養生テープで案内書が留められていて、濡れるかもしれないからレインコートを配る旨が書かれている。記念に、とその紙を大事にしまう。オープニングで散らかされる飛沫はしっかり飛んできた。皇天馬はバチっと目を合わせてくる。他の劇団員も笑いかけてくるシーンがあったが、こちらの頭部よりもやや奥に焦点を合わせていた。天馬だけがまじでこちらをカントク扱いしてくるから、思わず返事しそうになるほどだった。あまりに前だと奥や床での演技が見えないだろうと危惧していたけれど、ほとんど死角はなく、ただ上下にバミリが10まである舞台を一望することはできなかった。とにかく役者の顔や指の演技が滲まずにはっきりと見える。発声する段では大きな空間に届ける大きな演技が選択されるが、誰かの台詞を受ける演技はむしろミクロで、夏組のメンバーそれぞれの細やかな反応を追うようにして眺めていた。この近さは、むしろ台詞を発していない者たちを見るための距離だ。ほぼ待機状態で節約しながら声出すタイミングは外さない支配人の演技体も、背景に徹する配慮として効果的であると知れた。映像で抜かれるのと寸分違わぬ顔が目の前にあるというのは不思議な気持ちだ。だからこそ、カメラで抜かれそうもない所作ばかり追いかけてしまうのかもしれない。ほとんどの時間、ほわぁ……としていた。テーマパークのグリーティングみたい。大きなお芝居では初めての最前だったけれど、なんというか、これはもうずっと噛み締めていられる思い出だろうなあという気持ちでふわふわしている。帰ると緊張の糸が切れて、こんこんと眠った。二十分寝ると宣言して二時間寝た。あなたの仮眠に対する見積もりの甘さは新入社員並みだからもとから信用してないよと奥さんは静かだ。

行きも帰りも『鵼の碑』を読んでいて、これはもしかしたら今日中に読み終わってしまうかもなというペースだった。百鬼夜行シリーズは短編の方がまどろっこしく、長編はするする読める感じがあるというか、読んでいるとむしろ何故こんなに分厚いのかよくわからなくなる。文章は簡素だし、無駄がないどころか描写も最低限まで切り詰められている。そのうえ起こっている事象もそこまで多くはない。それなのに、頁だけは嵩む。でも作中の時間も情報も短くシンプルだから体感としては長さがそこまでない。これは不思議だ。いったい何にこんなに文字数を費やしているというのだろうか。遅めの夕食を終えて二十二時十五分だった。さっきストップウォッチで測ってみると一頁あたり三〇秒程度のようだったから、のこり百頁程を残すばかりの鵼はあと小一時間で読み終えるだろう。日記を書く時間も加えて一時間二十分ひとりになるね、と自室に篭る。いまこれを書いていて日付を跨いだ。誤差三〇分か。まあ新人よりはしっかりした見積もりと言っていいだろう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。