『ネロポリス』が1896年に書かれた『クォ・ヴァディス』を基にして作られたと知って、さっそく図書館で取り寄せる。僕は本を買うなら本屋がいい、Amazon はなるべく使いたくないが図書館はばんばん使う、『プルーストを読む生活』は本屋で買って欲しいしAmazon でチェック! されると微妙な気持ちになる。いや、嬉しいんだけど。図書館で借りてもらえるのは嬉しいが、気に入ったら好きなお店にお金を払って手元に置いて欲しい。でもこういうスタンスでいるとガイブンとか思想書とかあっという間に絶版になったりしてるから油断はできない。『グールド魚類手帖』はどこで買えるだろうか。
「読むときには、トリマルキオの愛宴という箇所に注意してくれ。それから詩のことだが、おれはネ口が叙事詩を書くようになってから詩がいやになったのさ。ウィテリウスは、食いすぎてもどすときには象牙の棒を使うそうだ。つまりその棒をのどへつっ込むわけだ。ベニヅルの羽をオリーブ油だのたちじゃこうそうの煎じ汁だのに浸したのを用いる連中もいる──おれはどうかといえば、ネ口の詩を読むことにしている──効果はてきめんさ。そのあとでならあの詩が賛美できるね。なにしろ良心は軽くならないとしても、胃袋は軽くなるからね」
シェンキェーヴィチ『クオ・ワディス』木村彰一訳 (岩波書店)上巻 p.422
ネロちゃまじゃないネロはネロに対するディスが輝くときいちばん輝いてる。良識あるみんなからバカにされ、陰口を叩かれ、それゆえに恐れられるネロ。やっぱり僕は描かれるネロにトランプを重ねるところがある。そういえば菊地成孔のTwitter の、捨て垢前提の身振り、アカウントに飛んで上からスクロールすることを前提に逆向きに投稿された文章に、僕はやはりなんだかんだこのクソ野郎が嫌いになれないんだよな、というか、学生時代、夜電波にどれだけ酔わせてもらったかを忘れられない僕は、あのころからすでに悪食というか、正しさや綺麗さや行儀の良さではないよさみたいなものを、どうしても拒絶しきれない自分に気づいている。キッチュな趣味は、しかし加減が難しい。露悪的になりすぎては下品だし、しかしそもそもが俗悪だからどうしたって品がよくなるわけでもない。ともかく僕は彼と町山ナントカさんとのプロレス自体には興味がないが、啖呵の切り方のタイミングと文体の冷徹さに痺れはした。
キッチュといえば奥さんが
今年のヤマザキ春のパン祭りの皿が現環境ぶっ壊れ性能のシンプルな白い深皿なのまじヤバないである? 配布でこの性能はもう皿課金しなくていいなってレベル 運営も遂に本気出してきたなって実感できるのであるよコレ… 絶対周回頑張って配布皿ゲットするであるぞ…!
@mao_DBmiyuki
https://twitter.com/mao_DBmiyuki/status/1356105179267928068?s=20
このツイートを見せてくれて、こう言った。結局オタクというのはアニメとか漫画が好きとかいうイメージに先行して、お互いをオタクと呼び合うその独特の言語センスを揶揄して作られた蔑称だったわけで、パン祭りについて語ってもその言語がオタクの言語であればオタクになる、パン祭りを周回に擬えて、カロリーや値段換算での最高効率ルートを算出したりするその言語感覚と思考法がオタクであればもうパン祭りだってオタクコンテンツだ。そういうようなことを話していて面白かった。
ローマ人が野蛮人をそのわけのわからない言語を根拠に蔑んだように、言葉遣いはそのままその話し手の属する共同体を暴露する。書かれた文字だってそうで、文体は内容に先行する。
三〇を手前にして、さいきんは明るい色の服をよく選ぶようになった。精神が肉体を支配するのではなく、肉体の状態が精神のありようを規定するのだということが年々身に沁みる。こうして富士急ハイランドみたいに気圧が急降下を続けるような日は特にそうだ。自律神経の乱れを前に精神がお高くとまっていられるはずもない。表層が内容に先行するのだということを、ナイーヴな十代の頃と比べてずいぶんあっさりと受け入れられるようになっている。
