『猫がこなくなった』を読み終えてしまった。ドゥルーズの言葉が谺する最後の一編がとくに好き。
「過去は、現在としてのそれ自身と共存する。」
「過去は、在ることをやめたことがないのだから。」
哲学の本はあるイメージに向かって手続きが順を追って積み重ねられる、それを書いた本人はその手続きによってイメージに辿り着いたのでなく先にイメージがあった、あるいは世界の閃きのようなものがあった、頭の上を大きな鳥が飛び過ぎていったその鳥の影が一瞬、私に影を落とした、私は一瞬その影の中に入った、そのようなものが本を書く前にあったのだとしたら、手続きをとばしてその影が私の頭上を掠めることだってありえる、その人がそれを書いた切実さと響き合う切実さが私にそのときあったなら私はそれを共有するか共有しないまでも共振するだろう。 目の前にいまここで温めなければ死んでしまう子猫がいる、友達はまさに手を合わせて包んで祈るようにして子猫を温めた、子猫は温まって一時はもぞもぞ動いたり薄めたミルクをスポイトから飲んだりした、しかし子猫はまた冷たくなっていった……という子猫がもぞもぞ動くことその動きがなくなること、温かくなったこと温かさがなくなっていくこと、それらは圧倒的だ、ほとんど完全に物質的次元だ。
保坂和志『猫がこなくなった』(文藝春秋) p.214-215
哲学に先行する物質的イメージを、文字を追う前から、触知していたり視認していたりとにかく認識しているのであれば、読者は読むまでもなくそのイメージを共有ないしそのイメージと共振しているのだから、読むまでもないというのはしかし欺瞞で、言葉になりようもないイメージに向かって漸近線を描くようにひたすら言葉を積み重ねていくその軌跡を追うことで、読者は思索を追体験する。それは一字一字を追うことなしには得られないし、一字一字を追うあいだにしか立ち現れえない。文字という物質的次元に触れることで、触れている間だけは他者の経験に近接することができるかもしれない。本を読むというのは小説にせよ哲学にせよ数学の証明だってそうだろう、とにかく他者の経験のただなかに自らを投げ込むことだ。そこでは自分がどう思うかとかは関係ない、他者の手つきの只中では他者のように考え感じ考える。だからふだんの自分とは全く異なる声や信条で周りを見ることになる。自分の理解を超えたもの、想像もつかないものが、どれだけ理解できなくて想像もできないかを思い知るために本を読む。そういうのが楽しい。読む自分も、書かれたもののことも、誰のことも共感できなくなるところからが読書だと僕は思っている。そのためにも訳のわからないような本を浴びるように読みたい。
最近よく思うのは生涯で出会った人が死んでいる人の割合の方が多くなった。ユダヤ教の時間イメージでは未来は後ろで過去が前にあるのだと、私の記憶違いかもしれない、私は最近読んでもいないことを知っている、見てもいないことを憶えている、ありもしないことを懐かしがっている。それでも過去が前にあるという考えに親しみを憶える。覚えるか、いや憶えるだ。(…)
保坂和志「同伴者」文學界 二〇二〇年二月号 p.148
この一文目の訳のわからなさ。かまいたちの漫才のあれを想起させる接続のねじれ。もし俺が謝ってこられてきてたとしたら、絶対に認められてたと思うか。最近よく思うのは生涯で出会った人が死んでいる人の割合の方が多くなった。読んでいて意味を追おうとすると、もどかしさに喉のあたりがイィーッてなる。