2023.10.10

リビングの時計が壊れてしまって、時間の確認など手元のスマホやら腕時計やらで事足りるのだから問題ないだろうと考えていたけれど、存外あてにしていたようなのだ。個人化された時間ではなく、共有する時間感覚を表象するものとして掛け時計はあって、ここにはコントロール可能な所有物のように時間を錯覚するという勝手を許さない何ものかがある。じっさい、二人は毎晩じしんの時間感覚の誤謬をリビングの時計で悟り、えっもう日付変わってるの、と驚いていた。これがなくなると、たとえば〇時のつもりで床につくとすでに一時をとっくに回っているようなことが起こるわけで、この数日の寝不足の原因のひとつに掛け時計の不在があると言ってもいいのではなかろうか。

しかし時間とは妙なもので、こちらが寝る時間だと思えば何時であろうとその人の寝る時間なのであって、起きたら起きる時間なはずなのだが、ついいつだかに定められた単位に則った時刻のほうに生理を調律するような具合になる。

ほんらいアナログなものをデジタルに分割し、あらゆる人が共通のリズム上で振る舞えるようにするというのはおそろしい権力で、暦や平均律、度量衡を司ってきた人たちというのはたいへんにえらいものだなということを、定期的に考える。時計の不在に困っていたり、いつまで経っても1カップをミリリットルに変換できないことに気がついたりするときなんかがそうだ。僕はどうも音痴で、連続したゆらぎのなかでしか生きられないようなところがあり、一定の単位で区切られた値にじしんを調えるようなことができないことが多い。近代以降の生きづらさとは、人為的に誂えられたデジタルな世界像への生理的違和の謂であるのだと思う。しかし、最初期のデジタルツールであり、かなり粗暴に世界を分節する言葉というものがなければそもそも日々の正規な音階のとれなさについてへどもどと言い訳をつくろうこともできないわけで、文字の配置を弄してなにかを構造化するという試みは、それ自体りっぱに非アナログ的な態度なのである。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。