2023.10.18

目覚めがよくなくて、体がだるい。脱水だろうか。水を一杯飲んでやや復調。コーヒーはよしておく。電車では座れそうで座れないままで、コンビニのホットスナックはひえひえのチキンだった。悲しくて菓子パンとコーヒーを買い足してしまう。けっきょくコーヒー飲んでる。しかもMサイズ。午前中、なにひとついいところのないまま俯いて過ごした。文学フリマ福岡は反応もよくわからず在庫数も手探り、一冊も売れないかもしれない……という心細さすらある。文学フリマ東京はだんだん地元のジャスコ感が出てきていて、行けばあの人やこの人に会えるかもな、という予定調和感の強い遭遇の場となってきていたけれど、福岡はまったく土地勘も知り合いもなく、背伸びして街の社交場に出ていくようなドキドキがあるとも言えて、なんかいい。自分は人好きするような人間ではないな、というのはぼんやりと思っていることで、僕よりも賢い人から見ればダサすぎ、僕よりもダサい人からすれば鼻につく、そのような半端なところにいるはずだった。ほとんどの人からは相手にされることはないという前提で好き勝手にのびのびやり続ける、これが卑屈でも傲慢でもないちょうどいい不遜さであると決め込んで振舞っている。とにかく知らん誰かに判断の軸を置かないというだけのことだが、ものを書き読まれるというのは自分とは別のところに価値判断の体系があるというのも実際のところで、自分にとって手放すべきではない価値というものと、この一般的な価値というものは必ずしも一致しない。その差異をどのように捉えるかということこそが味である。大概の人はそのどちらかの価値判断だけを盲目的にありがたがるから自分を客観視できていないだとか、没個性であるとかいうことになる。自分にとっては自明な「客観」の正当性を疑い、強く違和感を抱く「常識」の理路を紐解く、そのような態度がないと人は基本的に面白くない。つまらない人は自分の独断と偏見に過ぎないものをあたかもどこでも通用するものであるかのように不文律のように扱う。独断と偏見が独断と偏見に過ぎないことを冷徹に捉えながら、それらをいかに粉飾し当然のことであるかのように錯覚させるかがものを書くということである。絶対の価値などないというのはいうまでもない前提で、そのうえで多様な価値をそれぞれの仕方で肯定してみること。それが文字で構築し表現しうるなにものかのすべてである。これが「演技」である。書き手は読み手も演者としてある「場」に誘い込みつつ、お互いに醒めつつ信を共同で擬製するのだ。演者がただ白けていても、夢中で信じ込んでいてもダメなのだと思う。一緒につくるというのが読み書く「場」であり、一緒にやる気のない人までは構っていられない。このような共同の範囲の見極めにセンスが問われる。諦めすぎても期待しすぎてもおかしなことになる。主語が大きいのが悪いのではなく、適正な大きさを見誤るのがいけないのだ。なんの話だっけ。夕食は油淋鶏で嬉しかった。温かくて、ニンニクの効いたタレもおいしい。維新派の映像を観ながら、これはちゃんと観たいな、でも眠くて無理だな、と口惜しい。眠すぎてめそめそしてきた。もうきょうはむりだよ。そう諭されて寝ることにした。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。