2021.02.05(2-p.16)

『クオ・ワディス』を終える。ハラハラと言うか、ずっと胃がキリキリするような小説で、つい急いで読んでしまった。個人的には『ネロポリス』の衒学的な風俗描写のほうが好みというか、未知の他者の環世界を垣間見るような面白さがあった。今の感性でも無理なく面白く読めてしまう『クオ・ワディス』は、物語としての語り口だけでいえば『ネロポリス』の追随を許さない面白さがあるが、しかし面白さや物語の強度を損ねてでもディティールにこだわる姿勢の方が僕は惹かれるというか、面白さや物語に対してはつねに懐疑を持ってしまう。「ふつう」に面白がれてしまうということは、いまある偏見や固執を強めるということでもあるからだ。明日の命すら安心して確信できないネロの暴政につかれ、希望が欲しいと思って宇野重規『民主主義のつくり方』を始める。のっけから元気が出るし、藤田省三を取り上げる箇所では頷きすぎで首がもげた。宇野は藤田は経験というものを「物(あるいは事態)と人間との相互的な交渉」であるとして、その相互の交渉はものごととの自由で偶発的な出会いから始まるとする。そうした出会いはコントロールできないし、予測も立たない。またこちらが物に影響を与えるのとすくなくとも同程度にはものもまたこちらに影響を与える。そしてその影響が心地いいものである保証はどこにもない。

自分の思うようにならない物事との交渉は、当然苦痛を伴うものになる。しかし、自分を震撼させるような物事との出遭いを回避するとき、人はすべてを支配できるという幻想に自閉することになる。とはいえ、それは真の意味での「自由」とはほど遠い。「自由の根本的性質は、自分の是認しない考え方の存在を受容するところにあ」るからである。
よく知られているように、藤田は一九九〇年代になって「全体主義の時代経験』(一九九五年)を執筆し、「安楽への全体主義」に警告を発した。現代日本社会をますます覆い尽くすようになっているのは、「私たちに少しでも不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするものは全て一掃して了いたいとする絶えざる心の動きである」(強調は原文)。このような傾きこそが、人々を「経験」から遠ざけると藤田が考えたことはいうまでもない。
とはいえ、彼の危機感は一九八〇年代初頭の『精神史的考察』(一九八二年)において、すでに明らかであった。経験を拒み、言い換えれば自分に抵抗し拒絶を示すような事態との遭遇を回避し続けるとき、逆説的に人間は自動的な機械の部品にならざるをえなくなっていくと藤田は指摘した。
「今私たちを取り巻いている世界には、もはやそのような基礎経験も、それとの知的交渉を通した知的経験の再生力もない。それだけに、自分だけの「体験」を重視することによって、制度の部品となっている函数的境遇の中での気晴らしと「自分」の存在証明を求めようとする」。いたずらに自らの「体験」を誇る言説の氾濫にいらだちながら、それにもかかわらず、「経験」は失われ続けていると藤田は指摘したのである。

宇野重規『民主主義のつくり方』(筑摩選書) p.64-65

僕はこれをアーレントの気分を引き継ぎながら読んでいるわけだけれど、全体主義というのは僕はルチャ・リブロの青木さんが「スマート化」と名指したものと通じると思っていて、効率や安楽のためになんでもかんでも画一化していくことは、人間を人間たらしめる条件を損ねているかもしれない。効率や安楽は僕も好きだし、なくては困るが、ありすぎても自分があまりに肥大化するように思う。もう少し人は、エゴと摩擦を引き起こす世界との交渉を持った方がいいんじゃないの、みたいなことはよく思う。それは、苦労はでもするべきみたいなクソ生存者バイアスではなく、そんな苦労は二束三文で売りつけてしまえと思うが、相容れない他者との交渉は、ぜんぶがぜんぶ思い通りにいかなくても平気で人は生きてけるという事を実感するためにも重要だし、そうやって異質な他者をほったらかしにできるようになると、自分もまたほったらかされてるという自信というか安心が身につき、のびのび生きていけるようになると信じているからだ。老い先短い目のしょぼしょぼした人のクソみたいなミソジニーを是正するのは無理だ。変えるべきは個人の信条ではない。そういうのは基本変えられない。あなたは間違ってると糾弾しても正直だいたい仕方がない。そうではなく、そういう知性の欠いた人物にとって居心地のいい場所を具体的になくしていくこと。つまりは一人一人が、日々の職場や電車の中での目の前の他者とのやりとりについて、身の程をわきまることなく言うべきことは言っていくといった実戦が肝要なのだ。ぶっちゃけそういうのは面倒くさい。スマートじゃない。けれども、いまこそそういうスマートじゃなさを意識的に練習しておかないと、いよいよ気遣いや安楽のうちに、誰も喜ばない大運動会が開催されてしまう。

僕たちはもうネロちゃまを暴君にしてはいけない。忖度しておべっかを使いその場を取り繕ってはいけない。その政策はぶっちゃけイケてないっす、とオーナーであるHIDEYOSHIくんにサビってないっすと言い渡すRQ のように、生意気で、自分の信念を素朴に打ち立てるカリスマショップ店員であらねばいけない。FGOや『戦国鍋』でなんとなく歴史を学んだあとは、確かなものをフィクションから受け取った以上は、僕たちがそれを引き継いでいかなくてはいけない。

人間はみな、最終的に自分と他人は同じ者だと考えたがる。なぜなら、それはとても素晴らしいことだからだ。満ち足りた、温かなものだからだ。みなが分かり合え、価値観を共有し、手を取り合えるのなら、それが最良の営みだと夢に描くからだ。だが、現実はそうではない。それぞれに役割があり、それぞれに欠点がある。他人を信じるのは良いことだ。だが、その前に、自分と他人は違う者であることを覚えてほしい。無理に、大きなことをせずとも良い。そなたはそなたのできることを。余は余のできることを。それは、この世界で各々にしかできぬことなのだ。

ネロ・クラウディウス──『Fate/EXTRA Last Encore』八話より
柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。