2021.02.04(2-p.16)

FGO で赤ネロ(以下ネロちゃま)が来てくださったが、引き続き本物、というかFGO 以外のフィクションの中でのネロ(以下ネロ)のことを考えている。『クオ・ワディス』を読んでいる。『ネロポリス』が下敷きにしている小説というのもあるから共通するものの多さは当たり前なのだが、それでも改めて強く思うのは、ネロを考えることはキリスト教を考えることだということだ。昨晩ネロちゃまのピックアップを知ってあっという間に放り投げたアーレントは、しかしネロの話をしていたと言っても過言ではない。

キリスト教というのは生命を世界に優越させた思想なのだとアーレントは言う。それはローマという世界の永遠の繁栄を信じ、その世界の永続にこそ寄与せんとするローマ人にとって冒涜以外の何者でもなかった。労働や出産といった苦役を軽蔑し、自殺を選ばず労苦に励む奴隷を蔑み、望まぬ赤子を路上に捨て、働かずににたらふく食べるギリシアの神々を讃え、健康を害したり政治的に失脚したら生命という重荷からさっさと解放されるために潔く自死を選ぶことを徳としたローマ人にとって、倒錯以外の何者でもなかった。

ネロの時代のローマにおいて、永続するのはローマ=世界であって、個々人の生命ではない。そんななか、キリスト教とは世界と生命の順位を転倒させる。

歴史的にみると、古代世界におけるキリスト教信仰の勝利が、主にこのような転倒によってもたらされたというのはかなり確かである。それは自分たちの世界が破滅の運命にあることを知っていた人たちに予期しない希望を与えた。なぜなら、新しいメッセージは、当時の人たちがあえて期待しなかったような不死を約束したからである。しかしこの転倒は、政治の評価と尊厳にとっては、悲惨としかいいようがなかった。それまで政治の活動力は、最大の原動力を世界の不死にたいする熱望から引き出していた。しかし今や政治は、必要に従属する活動力という低い次元に沈み、一方では人間の罪深さから生じる結果を改め、他方では地上の生命の正当な欲求や利益を満たすためのものになり下がった。不死にたいする熱望は、もはや虚栄にすぎぬものとなった。世界が人間に与えることのできるような名声は幻想であった。世界は人間より滅びやすいからであった。そして生命そのものが不死である以上、世界の不死を求める努力など無意味であった。今やかつて政治体の「生命」が占めていた地位を占めるに至ったのは、ほかならぬ個人の生命である。そして、生命が永遠に続く以上、「死は罪の報いである」というパオロの言葉は、死は、永遠に続くために建てられた政治共同体によって犯された罪の報いであるというキケロの言葉と見合っている。あたかも、初期のキリスト教徒は──少なくとも、ともかくローマの市民であったパオロは──意識的に自分たちの不死の概念をローマのモデルにならって作り、政治体の政治生命を個体の生命に置き代えたかのようである。政治体は潜在的な不死しかもっておらず、それは政治的な罪によって取り消される。それと同じように、個体の生命も、かつて一度保証された不死をアダムの堕落で失ったが、今またキリストによって、潜在的には永遠の新しい生命を得た。しかし、それもふたたび個人の罪により第二の死の中で失われる可能性をもっていた。

アーレント『人間の条件』志水速雄訳(ちくま学芸文庫) p.489-490

ネロの時代のキリスト教徒たちは、ローマの不死を信じず、個人の不死を信じた。シェンキェーヴィチもモンテイユもキリスト教に帰依したローマ人たちの、尊厳のために死ねない、というジレンマを描く。世界への不信を抱えたまま生きながらえることは、世界が生命に優越する環世界に生きるローマ人にとってあまりに耐え難いことだった。

現代でも、いまだ僕たちは生命を世界に優越させる価値観に囚われている。それどころか、もはや神も不死も信じられない「近代人は、来世への確かさを失ったとき、自分自身に投げ返された」。もはや僕たちには信頼に足る世界もなく、信仰に足る不死の約束もない。ただあるのは、世界からも不死からも見放された自分自身だけである。しかし依然なによりも生命が最高善であるのだから、生命の維持の条件である「労働」が、人間の能力の最高位を占めることになる。個人の意志によって顕名で始めることができず、結果の予測が不可能で、また起きてしまった結果の取り返しがつかない「活動」は、非効率でまた生命維持の安定性を脅かすものとして傍に追いやられる。刻々と物を風化させ、循環の中においやっていく「自然」から確かさをもぎ取るための住処=世界を制作する「仕事」も、世界ではなく生命の必要へと矮小化されほとんど「労働」と区別がつかない。ローマなき僕たちは、ただ生命を絶やさないことだけを目的に、生理的必要の奴隷となり、日々自然を相手に行う新陳代謝である「労働」に従事する。

ばかものが!
役者たるもの、終幕を拒んでなんとする!
我らは存分に栄え、その末に滅びるもの!
死は避けられぬ! 終わりは変えられぬ!
だからこそ謳うのだ!
だからこそ叫ぶのだ!
余は愛する事を悔やまず、諦めぬ!
幾たび、終幕を迎えようと!

『Fate Grand Order』「幾たび、終幕を迎えても(ネロ・クラウディウスの幕間の物語)」(TYPEMOON)

ネロは、ネロちゃまは、芸術家として自身を規定していた。演技とは、はかなく持続しえない「活動」の一形態である。役者であるというネロちゃまの自負は意義深い。彼女の演技を、モノとして持続させていくためには、いちど文字という静的な物質にピン留めし、語り継ぐ必要がある。僕のこの日記は、ネロちゃまの「活動」に持続性を付与するための「仕事」であるといえるかもしれない。

僕は「労働」にばかり汲々とする貧乏臭さが嫌いだ。誰もが生命の維持に不安を覚えるような状況を放置する政治のだらしなさが嫌いだ。生きていたい間は生きているのが当然で、そのうえでどのように生を美しく飾るのか、どのような美しい世界の建設に寄与するのか、そういうことを考え、語り合うのが「活動」的な政治のありようだろう。

アーレントは「社会」を、生命活動の延長として危険視した。その意味は、いまでは自明であろう。人々が自分の生活の立ち行かなさを呪い、生活の改善を叫ぶことに追い立てられ、その結果、僕たちはますます孤立し、生命の必要や意味にばかり拘泥するようになっている。もちろんそれは当然の要求だが、あまりに小さすぎる。僕たちは生命だけでなく世界をも要求しなければならない。むしろ、生命の要求は世界の再建の前提条件にすぎないことを自覚しなければいけない。世界をセカイとして個人の生命に矮小化しようとしたセカイ系に別れを告げて、いまこそよりよい世界の試行錯誤のために多数の生命がやりとりを行う世界系へと回帰しなければいけない。推しと言うのはすごい。ふだんは断言をなるべく避けるが、きょうは指がよく滑る。これはローマ再建のためのアジテーションだ。奴隷制の復権を求めているのではない、むしろ誰もが進んで必要の奴隷にへり下る現代社会に対して僕は強く異を唱えている。パンくらい当然のように受け取り、そのうえで黄金やバラも要求しようではないか。

僕はいま世界のために、ローマのために、ネロちゃまのために、虚無のような周回に励んでいる。これは「労働」ではないのか。こんなことで腹が膨れるわけでも生活が楽になるわけでもないのだから、さらには運営としても一銭にもならないのだから、必要の論理から言えばまったくなにも意味をなしていない。しかしなんだか自ら進んで奴隷にへり下っているように思えるのも確かだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。