風がものすごい音をたてながら吹きつけており、昨晩はうまく眠れない。うう、といいながら起きる。起き上がれない。なんだか暑い。何もかもが面白くない。成瀬巳喜男監督の『流れる』を観る。ものすごくいい。途中で奥さんが入ってきてハーゲンダッツを食べるというのでいま映画観てるから半分残しておいてくれたら嬉しいと伝えると容器ごと真っ二つにしてとっておいてくれた。お昼はオリーブオイルと塩で和えた蕎麦に春菊と粉チーズをたんまりかけるやつ。見田宗介と柄谷行人をちゃんぽんして、永井聖剛『自然と人生とのあいだ 自然主義文学の生態学』も始める。いちにち休読日を設けたから、調子よく読むということでもなく、寝不足と寒暖差で集中力などないようなものだったがそれでもまったく駄目だったわけではない。高崎から奈良を経由してオリヅルランが届く。だんだん奥さんが仕入れてくる櫻井敦司の面白エピソードにほっこり微笑み合えるようになってきた。ユーモアは哀切に伴走する。夕食は白身魚と茄子の旨煮、トマトと卵の炒め物、白菜とキノコのスープにビーフンが入ったもの。きょうは奥さんの当番で、しみじみおいしくてばくばく食べる。お風呂の前にゲームをして、お風呂をしてから日記をする。あらゆる行為が主体へと還元されてしまう主語偏重の社会において、述語によって隣接するものを取り込んでしまうような場をどのように構築していくか。近代的遠近法によってこの目はすでに近代的自意識にとらえられている。主語も見ることもつまらない。制作において自意識が顕在化するものがつまらないのは、自意識そのものがどうというのではなく、それ自体がある環境下で構成されるものに過ぎないことを看過しているからであろう。かかわりあうのであれば、その自己の存立構造を問うことだ。そのようなことを考えていたような気がするがいちいち書くのは面倒だ。ちぎっては投げるように書く。するとこんなにも日記が日記然とする。
