いまどんなか当ててあげよっか。苦しいんでしょ?
遊び方を知らない野暮な客への愚痴や、顔が好きな男の話などをケタケタ威勢よくおしゃべりに興じていた女の人が、向かいに座る同僚にそう言って、ぽつりとこう続けた。
わたしもだよ。ほら、だんだん後ろにのけぞってく。
これは定食の量が多くてお腹が苦しいということなのだが、ここだけ抜き出すとなんとなく含蓄深いような雰囲気さえある。書くというのは現実に鋏を入れることであり、このような操作が可能であるが、じっさいの暮らしはどうでもよくだらだらしている。僕は実家の鍵って返したんだっけ、持ってるんだっけ、持ってるとしたらどこにやったっけ、と静かに焦っていた。Slack で奥さんに確認すると、奥さんは昨年の僕が実家の鍵を持っていると思い込んでじっさいは持っていなくて締め出された日の前後の日記を引っ張り出してきて、ここには鍵を見つけたとかもらったとかいう記述は見当たらないと教えてくれた。日記って便利だなあ。こういう使い方もできるのか。けっきょく実家の鍵は、過去の僕が現在の僕がどこにあるかわからなくなっても困らないようにとリュックの中のがま口に入れておいてくれていて、そうか、たしかにここにあれば実家の前で途方に暮れてダメもとでリュックをひっくり返したら確実に発見できる。過去の僕はかなり賢いようだ。現在の僕も抜け目なかったので、当日を迎える前にこうして辿りつけた。そもそも鍵について今日のうちに思い出せたというのは快挙だ。すごいすごい。
帰宅して夕食を食べて荷造りのために読みかけの本をきれいに読んで荷造りをしてお風呂に入ったらもう日付が変わりそうで意味がわからない。荷造りの工程に無用なものが差し挟まれているからではないかという疑義も挙がったが、根拠薄弱として却下された。