きのうの日記は「もっと私(と)のことを書け」という奥さんからの求めに直接応じつつ、間接的には北野武の映画『首』への反応でもあった。このような書き方というか、文字の配列を強いる原理というのはたいてい読む側からは見えなくなっている、なんなら書いているほうすら自覚できていないケースもよくある。僕は、書くさいにはいま自分は何によって書かされているのかになるたけ自覚的であったほうがいいと思うほうだ。この日記は何によって書かされているかといえばなんの考えもなしにうろちょろと散らされる文字列によってだ。
自分にとってだらだら書くというか文章がのたくっているように書くほうがしっくりくるというか無理なく遠くまで飛ばせる感覚があり、それをどれだけ端的で簡素な書きぶりに抑制するかというところに外からの目を仮構する具合が問われるわけだが、刈り込めば読みやすく文意が取りやすくなるとも限らないというか、なんにも書いていないのになぜか長いというのでしか醸せないものがある。さらさらと文字の流れを読んでいって、あれ、で、なんだったの? となるようなものばかり書いていたい。最近の日記はぶつ切り感を試していたのだが、やはりあまり体質に合わないというか考えが小さくなるばかりで、打鍵する指の運動につられるようにして考えるでもなく考えがあちこちに展開するというのが起こしづらい。
ところで、Twitterの失効によって個人規模での告知がほとんど機能しなくなっているのをひしひしと感じる。ニッチなものを選定しては拡大し、なるたけ多数に届けるという既存のマスメディアの流通網の存在感が改めて増してきたりしないものだろうか。それはそれで流通経路の多数性から既存インフラの一強へと揺り戻されるだけとも言えるけれど。
午前の読書会のために早起きで、でもAirPods が見つからなくて家を出るのが遅れた。駅のホームでリュックを引っ掻き回すがやはりない。はたと思い至る。きのうのファミレスに忘れたかも。店に電話してみるとやはりそうだった。引越しの検討で歩いてみた町のファミレスで、かなり行きづらい。ああ、そうこうしているあいだに電車を一本逃してしまった。ぎりぎりで神保町の会場に駆け込む。きょうは終わったあとの食事はパスして日比谷まで出る。劇場に駆け込む。眼鏡を観劇に適したほうに替えようとケースから出すと、なんとつるの螺子が外れている。イヤホンも眼鏡もだめだ。自分の迂闊さや間の悪さに嫌になりそうになる。もうやだ、今日は厄日だ、と合流した奥さんに零す。
イッセー尾形。映像では観たことがある一人芝居──「駐車場」と「幸せ家族」が好き──が、劇場で観るのははじめて。もとから老け役が多かったとはいえ、すでに立派に老人であるわけで、いまのパフォーマンスやネタがどれだけのものかすこし不安ではあったけれど、これは杞憂で、ちゃんと楽しかった。なんなら終演後の挨拶がいちばん足腰がぴんしゃんしていてわざと老いっぷりを拡張していたのだなとわかる。立体紙芝居と称して紙粘土性の仮面をとっかえひっかえしながらの終始ぐだぐだなパフォーマンスに付き合わされるネタがあったのだが、70過ぎのじいさんが満員のホールにたったひとり舞台に立ち間延びした人形遊びに興じた挙句に拍手喝采を受ける光景があまりに痛快で、にこにこしてしまった。僕はこういう光景が大好きだ。本当に力の抜けきった、大したことのない演技なのだが、その大したことなさが余計な価値づけをされることもなく大したことがないというままで面白がられている。こういうのが理想だ。この境地になるべく老いを待たないでいい形で実現することができれば。
終演後、奥さんはAirPods を探しに東西線へ、僕は眼鏡の修理のために銀座線へと分かれた。外苑前につくとあっさり二分で眼鏡は直り、銀座線の狭苦しさを嫌って青山一丁目から半蔵門線に乗った。わざわざ僕の尻拭いのために遠出してくれた奥さんと九段下で合流し、中野まで出る。ヤミツキカリーが食べたかったから。前は銀座や神保町にもあったのに、少なくなった。カリーは美味しくて来てよかった。腹ごなしついでに大掃除の道具を探しに島忠まで歩いてホームセンターは楽しい。げきおちくんシリーズがこんなに沢山あるなんて知らなかった。寒さと疲れで甘いものが食べたくなってマルイの上の階のトップスでチョコレートケーキ。ようやくイッセー尾形の感想をぽつぽつ話せる。奥さんの好きな俳優がトップスを知らなくてそんなことある? と笑っていたけれど、調べてみるとその故郷である四国には展開がないようで、そうなのか、と思う。改めてだいぶ店舗は減っているのだろうなと思う。錦糸町もなくなっちゃったし。だから一度はあって撤退しているのかまではわからないけれど、知らなくても不思議でないかもしれない可能性は充分にあるようで、こういうとき、自分の周辺にあるものがどこででも通用するものであると錯覚してしまう性向の強力さに気がつく。ここから見えているものは、自分には当然のことでしかなくても、だいぶ変でもありうる。
