日記が生活の雑事の記録に偏るとき、そこには行為の痕跡だけがある。このような文字列が気持ちがいいのは固有性を多分に担保したまま「私」が薄くなるからであるが、この日記がそのような方向を志向するばあい、第一の読者である奥さんとしては物足りないであろう。なぜならば、奥さんにとっていちばんの読みどころは僕が記述する自分自身だからであって、それはどうしたって分かちがたくこの「私」と重なり合うものだからだ。僕が僕に倦んで日記から「私」の濃度を抜こうとすればするほどに、いちばん関心のある対象についての描写はそっけないものにならざるをえない。好きなもの、執着について書くというのはつねにこの自己に溺れながら泳ぎ方を模索することにならざるをえない。不細工に足搔く当人でありながら醒めていなければまともに文法との距離を認識することもできないのだから、文章表現における熱狂とは夢中でありながら白けるという二律背反でしかありえない。
僕が奥さんについて書くとき書かれた奥さんは書かれたそばから虚構じみて魅力を放ち、その魅力に幻惑される形でよりいっそう奥さんがすてきに見えてくるということが起こるわけだが、これは自分で自分の排泄したものを食べてうまいと悦に入るのと同じような倒錯であるという自覚もまた同時にもつことになる。これはしかし自己欺瞞かと問われればそうともいいきれないと応えざるをえない。なぜならそもそも僕は奥さんを好いていて、その奥さんを書くこと、書かれたものを読むことも好きで、そのような自分も好きだからで、個人と個人の関係に「私」を介在させては不潔であるというようなナンセンスな潔癖を僕はもちあわせていないからだ。つねに未到の対象でありつつつねに不気味なテクストを産出するジェネレーターとしても奥さんは面白い。しかしだからといって目の前にいたりいなかったりして、行動の予測がついたりつかなかったりして、何を考えているのか筒抜けなようでもありさっぱり不可知でもあるこの人をどうにかできるとはどうしても思えず、人間というのはいつだってこうした文字列の外側に存する。言語表象というのは対象と等号で結ばれることはありえない。言語によって表現され実現されるのは、つねに言語でしかありえない別のなにかだ。
信じがたいほど幸運なことに、継続的な文筆の仕事をいくつか打診いただいており、来年は気ぜわしくなりそうなのだが、ここにきて僕はどうもちゃんとしなくてはという規範意識に流されそうになっている。実績というほどのものはないに等しくても、皆無というにはありすぎている今のような状況こそが正念場で、ここでちゃんとしてしまうことこそ安易なのだ。傍から見たらもう素人ではないな、町でいちばんの素人ではなく界隈でドベの玄人ではないか、といううっすらとした予感があるときこそ、きちんとしかるべき方向を見上げて自分の大したことなさを痛感し、半端で愚鈍なばかものであることを認識し、それを過度に恥じ入るでもなく愚かにも不遜な態度を固持して素人くさく堂々とちゃんとしないでいるというのは、かなり難しいことなのかもしれない。商業的な流通経路にのることがあったとしてもアマチュアリズムを捨てないでおくという道を選ぶべきだろう。しかし、繰り返すが、ちゃんとしないでいるというのはつねに難しい。ところでドベって名古屋弁だっていうのは本当ですか?
ともかくいま僕が隘路に感じているのは、僕のしたいことはただ「楽しい読み書き」に過ぎないのだが、身振りとしては評論や批評への距離のほうが近くみられるであろうことで、しかしこちらの道は知識も鋭さもたいへんなものが要請される道であり、ものをしらない鈍重な素人には荷が重いということで、一介のばかとして続けていくならば実作者のほうが向いているのであろうが、しかし僕は実作者になるには小賢しさが勝ちすぎているとも自覚している。半端に賢しらで半端にばかであるからどっちつかずのへんなところに進みたがるのだが、そこに整備済みの道はないから右往左往することになる。それを嫌ってちゃんとしようとしても、先人たちが踏み固めたその道は広くはないうえに補修が間に合っておらず泥濘も多く、ここで居場所を確保する胆力もまた僕にはなさそうである。
自分なりにちゃんとするというのはただ人並みにできないというだけのことだが、自分なりのちゃんとしてなさを貫くというのはなにものかである。僕は結婚直後なんかはもう好きな人の安穏な生活のために滅私して賃労働に粉骨砕身しようと思い込もうとしてみたこともある。しかしそれは最低だった。毎晩ものもいえないほど疲弊して帰ってきてむっつりしていることしかできなくなった。私は面白いあなたと一緒になったのであって、稼げたとしても面白くないあなたなんか意味ないんだけど、そう奥さんに喝破されたおかげでいまの不良会社員としてのにやけ面のばかものがこうしてものを書いている。書くことにしたって同じことだ。どれだけ商業との相性がよさそうでも、立派でも、面白くなくなればしょうがない。既製品に寄せる能力はないとはいえないのだろうが、義理は感じる必要はないはずで、ちゃらんぽらんに誠実にやっていけばよいのだと、おそらくこれからも何度も何度も言い聞かせることになる。