おとといの郵便受には『すばる』があって、きのうは『群像』。きょうは『新潮』が入っていた。『文學界』はまだかな。発売日が同じでも、届くタイミングがそれぞれ違うのは面白い。『文藝』も来るかと思っていたけれど、こちらは一月だった。これからは毎月このくらいのタイミングでそわそわすることになるのだなと思う。FISH TANK の会報も届いていた。夜に羽田まで行く奥さんが先に読む。啜り泣きが聞こえてくる。『新潮』を読んで待つ。改めて文芸誌というのは変だと思う。変というのはよくなくて、慣れないなと思う。組版にゆとりがないからあらゆる文章が等価に配列されており、連載もそうでないものもどちらも断片に感じられる。読み終えた、という手応えがないというか、有限化された区切りが物質として説得力を持てないからいつまでも食い足りない感じがある。このような場から個別の作品を切り出していくというのは、胆力や習熟が必要な行為であると思える。この日記なんかもきっとそうで、一冊の本に綴じられているということではじめて成立する読書というものがありえるというか、僕にとって読書とはほとんど始めと終わりが明確に設定された、まとまった集合に対するアプローチのことを指しているのだなとわかる。美容院で読むような雑誌なんかも、頭からぜんぶ読めるようなものでないと苦手だ。通読とまではいかなくても、方向を定めてリニアに読むというのが読むということらしい。そのような読み方では文芸誌は読み損ねるような気がする。部分や断片を、個として読む。読み方を解体していくような感覚がすでにある。
会報を読み、あの日のセットリストを知る。やっぱり、最後まで聴きたかったな、と思うし、次にどんなものを見ることができるだろうとすごく楽しみだったな、と思う。ただひたすらにさみしい。僕は献花には行かない。発表当時はまだ自分がどうやって折り合いをつけたいのかわからなかったし、弔いというものへのなんとなくの警戒心もあったから。でも、会場を埋め尽くす花々の鮮やかな色彩を奥さんのツイートから想像するうちに、行ってもよかったかもしれない、とも思う。
奥さんが羽田にいるころ、僕はばからしい映画をたてつづけに観ていた。『ダッシュカム』と『戦慄怪奇ワールド コワすぎ!』で、どちらも最高でげらげら笑った。『ダッシュカム』はスクリーンだと画面酔いしてしまったのでパソコンでもう一度観た。僕はいまだ悲しみを誰かと分かち持つということがよくわからない。それだけは、それぞれに孤独に所有するほかないものであるように感じられてならない。あるいは、悲しむということにおいてだけ、僕は誰かと共有できるかもしれないと期待してしまうのかもしれない。ほかのものは伝達不可能であることをしらっと受け入れているくせに、悲しむことだけはできるかもしれない、そう考えてしまうからこそ、誰とも同じように悲しめないこと、じぶんのような悲しみ方が了解されないことへの失望が深いのかもしれない。そのような考えで行かなかったし、行かなくてよかったと思うけれど、奥さんが見た花々、帰りにぼんやりと眺めた飛行機のことを、はやくも自分で見たかのように錯覚していることへの驚きとともに、行かなかったからこそすでにこの偽の記憶は鮮やかなのだと納得もする。