先月から『ニュルンベルク合流』を読んでいる。もうすこしで終わってしまう。副題のとおり、この本は「ジェノサイド」という概念の考案者レムキンと「人道に対する罪」を国際軍事裁判所憲章に織り込むことを提案したラウターパクトを主人公に据えたノンフィクションである。二人はオーストリア=ハンガリー帝国、ポーランド、ソ連、ドイツ、ウクライナと領有する国を転々とさせられ、そのつどレンベルク、ルヴフ、ルヴォフ、リヴィウと名前も変えられてきた町と所縁のある人物であった。第二次世界大戦中、この町の支配者はポーランド総督ハンス・フランク、ナチスの法律家だった男だ。自身の管轄においてユダヤ人の絶滅計画を指揮したハンス・フランクの罪を問うニュルンベルク裁判へと至る、レムキンとラウターパクトの個人史が膨大な調査に裏打ちされた平明な記述によって解き明かされてく。なにより、いくつもの名を持つこの町は、著者フィリップ・サンズの祖父レオンの故郷でもある。自身の祖父を中心とした家族の歴史が、もうひとつの、そしてもっとも私的な物語として、マクロからミクロまで、硬質な事務文書から生々しい私生活までを縦横無尽に書き尽くす本書の鎹となっている。
ニュルンベルク裁判の眼目は、主権国家の指導者を裁くという発想である。従来の国際法では主権は不可侵のものであり、国内法がどれだけ人権を蹂躙するものであっても外からそれを法的に糾弾する術がなかった。それまでの法理論では、主権間の調停が射程であり、個人への侵害を理由に主権を裁判にかけるなどということは思考の埒外であったのだ。ナチスの所業を断罪するためには、まったくあたらしい法理論が不可欠となる──国家を法的に罪に問うとき、どのような法概念が必要なのか? そしてその罪を指導者層の諸個人に負わせるためにはどのような法概念が必要なのか? この前代未聞の問いへの応答として準備されたのが、「ジェノサイド」と「人道に対する罪」である。そして両者は、その理路において鋭く対立している。
ラウターパクトの草稿はジェノサイドに触れることも、ナチスについて、あるいは集団としてのドイツ人について、またはユダヤ人やポーランド人に対する犯罪、というよりも集団を標的にした犯罪についてまったく触れていない。ラウターパクトは集団のアイデンティティを、犠牲者としても加害者としても、法律問題としてはあつかっていない。どうしてそういう立場を取るのだろうか? 納得のいく説明をしたことは一度もないが、レンベルクでの個人的体験が影響していたのだろうという気がする。バリケードのうえから、ある集団が別の集団に襲いかかるのをその目で見ていた。数年後、ある集団を保護しようとする法律の意図が──ポーランド・マイノリティ保護条約がそうだったように──急転直下激しい反動を生むのを、彼は目の当たりにした。十分な配慮なしで組み立てられた法律は、一番避けたかった事態を招き、意図せぬ結果を呼び起こしかねない。わたしは、直感的にラウターパクトの見解に共感を覚えた。それは、部族主義が持つ強烈な力を強化するのではなくそれを制限するために、たまたま属している集団の素性などとは無関係に個人一人ひとりの保護を強化したいという願いによって動機づけられている。集団ではなく、個人に重点を置くことによって、ラウターパクトは集団が相互に反目しあうエネルギーを減衰させようとした。 それは合理的で啓蒙的、かつまた理想主義的な見解だった。
一番強い反論はレムキンからなされる。彼は、個人の権利に反対しているわけではないが、個人にばかり焦点を当てるのはナイーブだと考える。衝突とか暴力が現実にどのようなものか、それが視野に入っていないというのだ。個人が狙われるのは、彼ら・彼女らが特定の集団に属しているからであって、彼ら彼女らの個人的特性ゆえにではない。法律は真の動機と実際の意図、つまりなぜ一定の個人──特定の対象集団に属する人々──が殺されたのか、その動因を理解したうえで制定されなければならない、というのがレムキンの考え方だ。レムキンにしてみれば、集団に重点を置くほうが現実的なアプローチなのだった。
二人の出発点は共通なのに、そして両者とも実効性のある方法を望んでいたのに、 ラウターパクトとレムキンは、大問題を前に提案した解決方法においてまっぷたつに分かれていた。大量殺戮を防ぐために、法はどのように貢献できるか? 個人を保護せよ、とラウターパクトはいう。集団を保護せよ、とレムキンはいう。
フィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流 「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源』園部哲訳(白水社) p.412-413
裁判において飛び交うテキストは、ある出来事の特異性に向き合いつつ、今後も実務に利用できるような汎用性をもったものとなることを志向して練り上げられていく。実運用を重視し現状に則した対症療法的であるべきなのか、あるいは、普遍的な指針たるべく理想を体現するべきなのか。公的文書の中にきまじめに収まる法概念には、起案者たちの人生を反映した信念が響いている。入国許可証や住所録、大学の受講者名簿を丹念に読み込むことで過去の個人の生を鮮やかに掘り起こす著者の手つきが示すのは、すべてのテキストはかつてあった生活を指し示しているということだ。無味乾燥な事務文書からあらゆるナラティブが解読されていく。『事務に踊る人々』のあとに読むからか、余計にそのことに心動かされる。あと一〇〇頁くらい、大事に読む。
中華街で親類の集まり。ビールがピッチャーで来るのでどんどん飲む。帰りの電車では、いつか飼う猫の名前を真剣に考え続けた。