地方巡業のプロレスラーが毎朝しっかりと朝ご飯を食べている様子をSNS で発信しているおかげで寝起きでも食欲が湧くようになってきた。プロレスの効能というのはほかにもあって、大きな声がいいような気がしてきた。そもそも自分に対してがさつでありながら声が小さいことへの違和感がある。もうおじさんと言っていい年なのだし、ガハハと声を張ってずけずけとお節介を焼くようでありたい。元気への意思が強まる。元気がなければ相手の技を受け切って咲かせてやることができない。自分のパフォーマンスなんかよりも、一緒にいる人が存分に持ち味を発揮できる環境を整えることのほうが格好いい。僕はいまだに咲かせてもらってばかりだ。しかも小さな声でひっそりと咲きやがる。せめてでかい声で満開をひけらかしてみせろよ。
基本的に僕は男性一般を嫌悪しており、体の大きなおっさんなどはその最たるものだったのだが、自身が元気も覇気のないおっさんになってくると、性ではなく生命力一般に対する嫉妬であったのかもしれないと思い直す。するとそれは憧れに近づいて、さいきんはとにかくごきげんそうなおじさんたちを見るといっそ微笑ましいような気にさえなってくる。ああなりたいとは思わないのだが、ああなれたらとは考えてみたりするようになった。
声日記は日記と言いつつ毎日やるのはしんどいので週末のぶんまでまとめて録音しておいて配信設定しておいたのだが、なぜか月曜まで録りためていると確信していてそんなことはなかったので昨日さっそく配信出来ていないことに気がついた。しまったことだった。序盤で躓くと面倒くさくなりそうだからとずるしてストックしておいたのに、裏目に出てしまった。昼休みにやろうと思っていたがiPhone の充電が切れてしまう。
大型書店で『評伝クリスチャン・ラッセン』、『生きる演技』。『私の作家評伝』を買う。現金で支払うつもりが習慣でカードを切ってしまう。MacBook の支払いがあるからこれ以上月次の借金を太らせたくなかったのだけれど。
『チャイニーズ・タイプライター』を夢中で読む。超面白い。声日記は読書メモがわりに使ってみようと思い、感想を合計二〇分程度喋り倒す。本の紹介や要約は日記で書こうとすると結構な面倒くささなので、気楽にぴゃーっと喋ってしまって気が向いた時に文字起こしをもとに文書化するというのがよいかもしれない。
現行の日本語を打鍵する技術にすっかり馴染んでいる日本語話者からすると、この本のそもそもの問題意識すらピンとこないかもしれないけれど、著者の鮮やかな筆致に身を委ねて西洋視点で考えてみれば、そもそも表意文字というのが訳がわからないことに気がつく。キーを打てばキーに印字された文字と同じものが紙や画面に出力されるという表音文字の世界観から眺めれば、膨大な文字を網羅的にかつ素早く打ち込むということは到底不可能に思える。まずは言語をより「合理的」な体系にまで縮減するような改造が不可欠ではないか。
ある言語体系が新興の技術によって「不合理」というレッテルを貼られてしまう理不尽さに漢字圏の人々はどのように反応したのか。中国語タイプライターをめぐる挫折と苦悩の悪戦苦闘の歴史が紐解かれる様子はとてもスリリングだ。入力と出力のあいだに検索を挿入するという発想の天才っぷりにあらためて興奮した。考えてみたらこれはすごくすごいことだ! 予測変換の黎明として描かれる、タイピストたちが個人個人の生理感覚と経験則に合わせてパーソナライズした配列は、徹底的に個人的な工夫が、そのまま共産主義の内面化と直結している状況を照らし出す。
ある言語を技術という観点から問い直す。そこに再現される過去の七転八倒が、すっかりプログラミングの都合に合わせて生身のこちらが譲歩することに慣れきった現代人の僕にもたらすものは大きい気がする。というか、「規格化」というタームを用いて『会社員の哲学』で扱おうとした問題群とも通じるところが多い。これは何度も読み返しそうだった。