卒業式や結婚式のスライドショーで使われそうな、カラオケで歌ったら気持ちよさそうな、とにかく泣かせにかかってくるJ-POP が最近やけに染みて、けっこうやなのだが、仕方ないのかもしれない。
出生から上京までの二〇年弱がほとんど丸ごと90年代と00年代と重なっていることについて考えている。ラッセンの本を読んでいるせいである。
実家では新聞も読んでいたし、テレビを見ていたが下宿には本しかなかった。そして大学二年で初めてiPhone を買った。情報の取得先がオールドメディアであったころ、それは親の選択を受け取っていただけであり、能動的な探索というのはTSUTAYAと BOOKOFF、そしてヴィレヴァンに限定されていた。10年代からはそれらがほとんどスマホへと置き換わっていったが、僕はそれを時代の趨勢というよりも、大学進学と一人暮らしによる個人的生活様式の変化としか感覚していなかったのではないか。
あのような情報環境は、実家で過ごした子供時代特有のものではなく、ふたつのディケイドに特有の時代感覚のようなものであったのだということ。そのことにようやく自覚的になりつつあるというか、子供特有の自身の環世界を普遍的に適用可能なものであるとする錯覚はとても強力であるのだという感じがする。僕らは最大公約数的なテレビ視聴者というアイデンティティを持ちうる最後らへんの世代なのかもしれない。あるいは、生育環境からの出立とオールドメディアからの離反が重なり合った世代といったほうがいいか。
テレビや新聞的なものを自らの選択として嗜好するという発想がないまま大人になっていて、しかしいまだにどこかで歳を取ったらそういうものを嗜むというような思い込みがある。というか、いまだに大人とはこういうものというイメージが実家で流し見ていたテレビ番組の枠内から出ていないような気がする。J-POPで泣き、恋愛ドラマでときめくというような。結局この自分を形成しているのは『ごくせん』と『プロポーズ大作戦』なのかもしれない。
自身の郊外性をまなざしながら、祖父母の家で見たラッセンや相田みつをについて思いを馳せ、べとべとなJ-pop をイヤホンから流しながら、『評伝クリスチャン・ラッセン』を読んでいる。プロレスに接近することでほぼ無防備に受け入れ始めたマイルドヤンキー的感性に歯止めがきかなくなってきているような気もする。車とか欲しくなっちゃうのかもしれない。思えばカーステレオというのもあった。父のお客さんが毎月邦楽ベストヒットのCDを焼いてくれていて、車中ではそれがかかっていた。J-POP はファミリーワゴンのドライブミュージックでもあるのだ。セゾン文化に間に合わなかった僕としては、カルチャーに接近しようとする金持ちの純朴な趣味の悪さが新鮮だし、アールビバンの理念と実践は素朴にいいなと感じる。総じて景気がいいというのは愚かしくて可愛げがあるのでいい。理論武装も界隈での承認を必要としないマスカルチャーが元気な時代というのはそれだけで何か明るいところがある。それにしても、ほとんど興味のなかったラッセンの孤独にしみじみ思いを馳せてしまうのだからすごい本だ。
