2021.02.16(2-p.16)

結婚してから四年だか五年。二人とも指のサイズが変わった。奥さんの薬指はふっくらとして、僕はますます細くなるようだった。最近は奥さんの指が窮屈そうで、僕らは毎晩お風呂上がりに指輪交換をするのだけれど入らなくなることも多くなっていた。それで昨晩試しにお互いの指輪を交換してみたら奥さんはもちろんゆるいはゆるいが何とかなりそうだったので、奥さんに僕の指輪を渡して、僕はさすがに薬指には入らなかったので、奥さんの指輪を小指に嵌めておくことにした。薬指の不在が落ち着かないので、そこには別の指輪を嵌めておく。しかし奥さんの指の華奢なことよ。慣れない指の圧迫感で、明け方には変な夢を見た。

人の指に限らず体というのは朝にいちばんむくむものなのだったか。寝覚めはあんなにきつかった小指は、昼頃にはむしろほっそりとしてきて、油断すると外れてしまいそうだった。外れた。それもよりにもよって便座の前でズボンを下ろした拍子にだ。久しぶりに頭がホワイトアウトしかけた。便器の中の水は冷たかった。ことに及ぶ前でよかったが、なにより取り返しのつかないところまで流れていかずに本当によかった。ことに及んでいたとしたらまだクッションがあってよかったかもしれない。しかし僕は指輪のためなら便器にも手を突っ込めるのだな、それは愛だな、と感心もした。とにかく指輪は視認できるところにはなく、やや奥まったところにまで転がって行ったらしい。祈るような気持ちで便器の底を指でそおっと探っていく。あの時間のどれだけ長く感じたことか。ひんやりとした水の中で、元から冷えやすい手はますます冷たくなっていくが、それよりも冷や汗をびっしりかいた。見つかって良かったが、やっぱりゆるいから返す、などと、さっき便器に落としたことを申告して返すのも、なんだか便器帰りほやほやの指輪を押し付けるようで気が引ける。しかしこのまま嵌めているのも怖くて仕方がない。しかしとりあえずは、奥さんは今日は仕事が忙しそうだし、入念に洗った指輪を反対の小指に嵌めて──半日も嵌めていたらこちらも細くなってしまうだろう──奥さんの退勤か、もしくは今晩の指輪交換まで待とうと思った。

奥さんはぜんぜん退勤する気配がなく、夜は出前を取ることにしていた。僕はピザの気分だったが、奥さんが健康そうなものが食べたいと言って、僕は不健康だからピザが好きだったので、不健康が嫌ならすしとかのほうがいい、最優先の欲望は出前を取ることでだからピザじゃなくてもいい、ピザじゃないのにしようと言うと、話がこじれ、さっさと決めて頼みたいのに険悪な雰囲気のなか時間だけが過ぎて、気力も体力も浪費して愚かだった。呆れた奥さんがちゃきちゃきピザの注文を済ませ、仕事に戻っていく。ピザは早かったし美味しかった。

その後、僕は生まれて初めて便器に手を突っ込んだこと、人様の結婚指輪を便器に落っことしたことを切々と語った。仕事で疲れている奥さんはゲラゲラ笑って、はー、元気出た、と言った。指輪は元の持ち主に返した。やっぱり奥さんはきつそうだ。新しいやつ買おうね、と決意を新たにした。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。