雨だ。寒気とも見紛う猛烈な眠気。コーヒーをぐだぐだ飲み、朝食を食べて出勤。朝ご飯を食べなければ動けない体になったのがこの数カ月の変化で、おかげで遅刻が増えた。連休の人も多いだろう平日、なんとなくのんびりとした雰囲気が町に漂っている。誰かがのんびりしている、といういいバイブスは不思議とこちらにも伝播していくようで、労働日ながらも何となくのんきだった。カレンダー通りに観光地に出るとむしろレジャーという労働者としての義務を消化しているような感覚になる。こういうときはむしろオフィス街のほうがリフレッシュできる。大勢と同じことをする。それは混むということ。混雑は忙しい。人気や流行とは無縁の楽しさを探し出すほうが好みなのも、ひねくれているとか逆張りとかいうよりも、まずなにより忙しさを忌避する性向からきている気がしてならない。暇なほうが豊かで面白く、楽しい。
Twitterで今月の『群像』の話題を確認して、わあ、となる。今年はオルタナ旧市街の単著が出て、武塙麻衣子さんの連載が『群像』で始まる。勝手に書き手として同期っぽさを感じている人たちがまとまった規模の資本に乗っかって市場に出ていくの、うちらのシーンが始まってく感があっていい。盛り上げていきてえ。
伏見瞬と韻踏み夫の対談を読んで、大谷能生『歌というフィクション』と『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』という傑作への補助線としても有用で面白いのだけど、会社からの電話によって強いられた中断のいなし方に痺れた。二部、三部もたのしみ。流れで韻踏み夫の過去のnote も読み返して、やはり「ある一日に乾杯する」は名文だ。「自分の身体のヤンキー性と向き合ってみる」というのを初めて読んで、アーバンマイルドヤンキーを自認する者として面白かった。自分の話に引きつけるならば、中学や高校では、オタク的な同級生もヤンキー的なそれもどっちもダサくてキモいと感じていた気がする。どちらにも一定の共感を抱きつつ、両極ともに決して居心地がよくなかったというのが現在まで自分の抱える半端さのようである。先に勝手に〈うちらのシーン〉とかほざいた身でいうなという話だが、あらゆる〈うちら〉感への違和感がずっと強くあった。いまもあるが、少しずつ〈うちら〉もいいよなという思いが強まってきているというか、排外的な共同性の必要もよくわかるようになってきた。というか、あのころの僕の閉域はそれこそ家だった。実家がそのまま〈うちら〉であって、学校も町も〈あいつら〉の側に追いやれた。社交によって〈うちら〉の文化の圏域を自前で確保するというのは、上京してからようやく迫ってきた必要だったというのが、この身の振る舞いの鈍くさいフェイク感を規定している。別にそれでいいと思っている。基本は家で引きこもっていたい。
