『ゴジラ-1.0』を観る。案外よかった。ゴジラがちゃんと怖くて、その大きさがよくわかる撮り方がなされていたのと、破壊や飛沫のバリエーションも豊か。ドラマとしても野暮ったくはあるけれど苦痛ではない程度に整理されていて、面白く観ることはできる。ただゴジラに人文的な意味が重く付与されすぎてはいるので、どれだけ理不尽であっても生き延びてしまった側のトラウマの比喩となってしまう。怪獣を矮小化する姿勢であり、それは戦争と災害をそれぞれの仕方で安易な物語としてしまうようなグロテスクなものであろう。しかしそのようなヒューマニズムこそが、この映画をわかりやすい娯楽作たらしめているというのもその通りで、全編にみなぎる重苦しい苦さをリテラルに受け取りながらも、同じリテラルさで物語を娯楽として楽しめてしまうという、大衆的な知性と感受性の複雑さというか、二律背反を平気で同居させてのけるしなやかさについて考えずにはいられない。危うい回路だ。しかし、一面において切って捨てるには生活感覚に根ざした素朴な知恵のようなものがある。この生は苦しい。それでも、暮らしを続けていくという業を面白く物語れてしまうということ。
続けて一九五四年の『ゴジラ』を観て、『-1.0』はここから更に七年遡ったわけだ。河内桃子が可愛い。主に河内桃子の可愛さによって物語が進行する。ゴジラの出ているシーンはどれもよかった。特撮とはモノクロに愛された技術であることがよくわかる。映画における破壊の快楽とは、玩具と戯れるままごとの愉悦と相似である。陰影だけを強調する色彩を排した画面は、チープさを適度に洗練させて、稚気をエレガントに演出してみせる。電車内の会話。また疎開か、やだな。なにげなく吐かれるその一言のトーンの軽さが重い。そのような重さはこの後ゴジラからは失われていったのだろう。昨日のザッピングの感じだと、シリーズ化するにつれて終盤の展開の安っぽさのほうを増幅していったのだなと思うし。