柏のキネマ旬報シアターに出かけていく。
チケットを買って、向かいの中華屋で日替わり定食。『悪は存在しない』を観る。先日住本さんから話題を振られたが、詳細は伏せたままお話ししてくれたのでなんだかんだで事前情報をほとんど入れないままに観ることができた。それがよかったと思えた。
すべてが終わるまで起承転結的なプロットの骨格を掴むことが難しいナラティブは話の内容というのを極限までどうでもよくさせ、このショットで終わったら傑作だろうな、と感じさせるショットが連続し、それでもまだ持続するから実時間よりもずいぶん長く充実した体感がある。それどころか贅沢に反復までされる。じつに映画的な文法で散りばめられた悲劇の予感が連結しあい濃厚に立ち込めており、一見穏やかな場面でも緊張と集中を強いられる。不安の出どころを明かすことで観客を安心させてはくれない。一箇所に着地することを許さない語りの曖昧さがある。構図と運動の反復、それらがつくる静かなリズムに破調をもたらす不躾なカメラによって示されるのは、霧の立ちこめるなか人が人ならざるものへと変身する一瞬のワンダーである。魅力的な顔や身体そして風景を材にとりながら、あくまで主役はこのワンダーを観客にもたらすカメラなのだ。
被写体をフレームに収めるカメラ、被写体の視点を簒奪し、被写体以上に動的なカメラは不気味な存在感を誇示する。映画という技術に染みついた「西洋」「白人」なにより「男性」という文脈を不遜なまでに踏襲している。『ベイブ』を父性について考える足がかりとした本を作った者からすると、映画やカメラという「男性」を自覚的に継承する姿勢をむんむん漂わせた『悪は存在しない』において、安易な反省のポーズや断罪の身振りを超えた父性論が展開される予感につよく期待した。その徴候は、街の男の車中での危うい発話を経て、薪割りや水汲みのあと森の男と二人で煙草をくゆらす姿において高まるのだが、映画はけっきょくヒューマニティの彼岸にまで行って帰ってこない。登場人物たちに割り振られた男性性よりも、映画それ自体、カメラのもつ男性性こそが問題だからだ。街の男と森の男。介入や維持を試みるシステムが人為的な市場原理であるか余白の多い川や森かという違いだけで、二人とも己の手で別の秩序をもたらすことに快楽を覚えているという意味では似たようなものだ。だから薪割りが「気持ちいい」。木を殺し、切り分け、資源へと変容させていくことと、カメラを据え、カットを割り、並べ直す映画の生成と。都市と森を等価に捉えるカメラもまた、自らの原理で他者を支配する後ろ暗い欲望の主体なのである。
家電量販店でエアコンの知識を詰め込んでもらう。映画館に戻ってドリンクバーで喉を潤し、今度は二階のスクリーンだ。長らく観たいと思いつつ機会を見逃していた『THE COCKPIT』がとうとう観れる。やっぱり、大好きな映画になった。サンプラーではじめの一音を出した時、OMSBが漏らす、おほっという笑い声。レコードからいい感じの音を探し、抜き出し、試行錯誤を繰り返すOMSBの背後で無駄話やシャドーボクシングに興じるBIM ら友達の振る舞いがいちいち味わい深い。斜視についてのやりとりと、BIMの拳に差し出された白い靴下の裏側。音をいじくりまわし、何度も何度も失敗しながらじわじわと理想の形へと近づいていく指の運動。そのような悪戦苦闘にはなにひとつ貢献せずにだらだら過ごしているだけにも見える友達らの何気ないフィードバックが、しかし確実に制作を方向づけ勇気づけていること。OMSBはトラックの制作においても、ラップの吹き込みにおいても、とにかくリテイクを重ねる。そろそろ一服した方がいいんじゃないかとおもうほどどん詰まるのだが、決して中断をせず、案の定よりうまくいかなくなっていく。そのしつこさ。延々と繰り返される失敗と再挑戦に、淡々とつきあう友達らの塩梅もとてもよくて、だらだら集まるということ自体がひとつの気遣いの姿態である。気遣いのよき姿は、リリックを書くためにまず遊ぼうとNIKEの箱とスーパーボールでふたりだけのゲームを発明しプレイするようすとして結晶する。ここ、素晴らしかったなあ。ラスト、完成した曲がかかりながら首都高を走る車窓からの景色が映し出される。終盤、カーブを抜けたカメラは荒川を映し出す。そこに並行してかかる橋を僕は知っている。車道と歩道を有する橋のすぐ真横には電車の線路がかかり、そこを電車が走る。『ケイコ 目を澄ませて』で暴れる光の粒子をもたらした電車と同じものだ。そして、きょうの僕が夕陽を背にして眺めた電車と同じものでもある。その上に浮かぶピンクと灰色のグラデーションに染められた雲を眺め、振り返るとほとんど沈みかけた陽がオレンジ色につよく発光する。逆光で黒いシルエットになった街頭の向こうから鳥の群れが俄かに飛び立ち旋回する。思わず追う目はふたたび川と線路を捉え、首都高上の奥から手前へと流れる車の列と、右から左へと通過する電車とがリズムをつくりだす。
