午前中は冊子の打ち合わせ。いよいよ組版のイメージも固まってきて本を作ってるんだなあという気分が高まってくる。しかし肝心の原稿がまだあがってこない。原稿を待つというのもたいへんなことだとはしかし思わなくて、間に合わなかったら全部そいつのせいだしな、と気楽なものである。
そのままの勢いで原稿を書き始め、昼食をすっぽかす勢いで完成までもっていく。それから散歩がてら買い物に出て、スーパーの遠さを嘆き、焼き菓子を買いに寄る。帰宅したらへとへとで、クールダウンにスクリーン部屋で『デモンズ』をはんぶん観る。楽しい映画。真っ赤で粘度のある血糊というのはなんでこうもおどろおどろしいんだろう。音楽もごきげんで、怖がらせたいんだかワクワクさせたいんだかよくわからないのだが、それが楽しい。寝かせておいた原稿を読み返し、微調整してメールで納品。おやつにする。富山で買った御菓子無花果というお餅がたいへん美味。ゆべしのような食感の餅にラム酒やシナモン、棒茶に胡桃、そして無花果が入っている。
『デモンズ』の後半を観て、昨日読んだ『テヅカ・イズ・デッド』の影響でKindleで手配した『GUNSLINGER GIRL』を読み始める。絶対に嫌いな漫画なのだけれど、どうにも読みたくなってしまった。
一方、『GUNSLINGER GIRL』の自己言及はさらに深いレヴェルに達する。「キャラ」たちは、自分の「感情」が植えつけられた偽物だと知りながら、それでも「いま、ここ」で生じる感情を「かけがえのない」、唯一のものとして慈しんでいるのである。たとえ「私」という主体は偽物であったとしても、「感情」は唯一無二のものだということだ。よって、これを「本物」と区別することはできない。
このことは、私たち読者が「キャラ」に接するとき、私たちの「読み」のうちに生じる感情が、たとえ「マンガのおばけ」=現実に根拠を持たないイマージュ=亜人間に対するものであったとしても、それそのものは「いま、ここ」に確実に存在する「本物」であるという事実を、鏡像のように映し出す。いいかえれば、「キャラ」という装置が、身体や近代的な主体を必ずしも表象していなくとも、少なくとも「感情」だけは表してしまえることを私たちにつきつける。このような事態を、東浩紀は「僕たちは、人間とキャラクターを、知覚的には区別できるが、感情的にはできない」と、挑発的な言辞を用いて説明する(東港紀「未来にキスを 萌えのディストビアへ」、東浩紀編「美少女ゲームの臨界点+1」一ー一頁。波状言論 東浩紀個人事務所、二〇〇四)。
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(星海社新書) p.326-327
夕食は肉団子の種を作って半分に切ったピーマン煮詰めて蒸し焼きにする。キャベツをレンチンしてサバ缶と醤油とマヨネーズと和える。味噌汁は大根と油揚げで簡単に。プロレスの配信を見ながら食べる。長かったBEST OF THE SUPER Jr.31 もあと一週間ほど。今月の多忙さの三割くらいはこの大会を熱心に追いかけているせいである。HAYATA 対エル・デスペラード戦、熱い!