2024.06.05

きのうは水筒を買った。象印のパッキン一体型のやつ。枕元に置いておいて、寝起きに飲めばすっきり目覚めるという作戦だ。何度か試していたのだが、水筒を洗うのが嫌いすぎて続かなかった。パッキンを分解するのがまじで無理。それがない水筒というのはとても文明という感じがする。目論見はまんまと成功し、目覚めはよい。うきうきと二度寝した。ダメじゃん、と奥さんは呆れたが、起きれないのと起きないのはぜんぜん違う。出社前に郵便受けを見ると青木さんからの献本が届いていた。通勤電車で読む。最初のほうで引用されている前作の文章。

つまりぼくが考えたいのは、対立を終わらせる方法ではなく、対立を続けていく方法です。それは傷つけ合うことを目的とするのではなく、二つの原理を保つための「闘い」です。この「闘い」をどう捉えるかが重要です。近代的な総力戦・殲滅戦だと捉えてしまうと、それは違います。二つのうちどちらかが滅亡するまで完膚なきまでに叩き潰すのではなく、闘う相手がいることによって社会が存続していくことを前提にした「闘い」。最終的な決着・解決を目指すのではなく、いったんは勝ち負けが決まるけれども、また再び始まるような「闘い」です。「闘い」を通じて問題を明るみに出し、それをきっかけにコミュニケーションを誘発する。すると、そこに物語が生まれるのです。闘うことを目的とした「闘い」。終わらせてはならない「闘い」です。(青木真兵「手づくりのアジール」晶文社、2021年、33頁)

いま読むとこれはプロレス論だ。繰り返される興行のなかで「因縁」や「禍根」を積み重ね、来るべきメインイベントにむけて「闘い」を持続させる。遂に訪れるシングルマッチで決する勝ち負けさえも仮のもので、すぐさま次の「闘い」への物語を生成する素材になっていく。プロレスの「因縁」や「禍根」って、サルトゥー=ラジュやグレーバーがいうところの負債だもんな。コミュニケーションの清算ではなく持続をこそ志向するありかた。

青木さんの繰り返す「二つの原理」を行き来するとは、一方の合理性にとっての不合理を、もう一方にとっての合理として捉え返す実践だ。青木さんはこれを都市と山村、近代と前近代によく擬えるわけだが、都市に住み近代資本主義にまみれた僕にとって、もう一方の原理のありかとしてたとえば実話怪談がある。昨今のホラー、特にフェイクドキュメンタリーの盛り上がりも、こうした視点から語れるものがあるかもしれない。あるいは、そもそも言語表現とは二つの原理を生成する行為であるとも言える。書く自分と書かれる自分という、それじたいは陳腐な二項の異同を精緻に見極め、行き来すること。このあたりは山本浩貴『新たな距離』を参照しながらより考えを進められそうなところだ。ここにきて、文芸に偏り始めていた僕なりに青木さんの論に合流する理路がひらけてきた感じがある。明日は面白くなりそうだぞ!

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。