2024.06.11

やっぱね、笑顔で話しているってのが大事だよ。

大阪市中央公会堂でのイベントを終えたあと、青木さんがほがらかに言った、ように思うのだが、ほんとうに言っただろうか。少なくとも僕はそのように聞いたと記憶した、そのことを考えている。今年に入ってからの半年、放っておけば上がっている口角が下がっていることが増えた。眉根にも皺が寄りがちで、端的に偏屈おやじ感が濃厚だった。もしかしたらマスクをしだしたころから、あるいはもっと前からそうだったかもしれない。ナメられるくらいのほうがいい、となるべく柔和に構えているという姿勢がいつしか硬化し、むっつりとしていることが増えていた。ひとまず今年からということにした場合、まず理由として忙しく動き回っているというのが挙げられそうだが、じつはこれは僕が勝手に用事を作って慌てているだけなのだから、むしろ問うべきはなぜわざわざ忙しくしているのかだ。それもまた明白ではあり、家を買ったからだ。年明けに契約して、春にかけて計画し、夏前にはリフォームも終わる。古い家を買って直して住むというのは、決めてからも半年がかりで進行していくもので、ほんの数週間の印刷の仕上がりを待つだけでもやきもきしすぎて体調を崩す僕としては、それは気の遠くなるほどの長期計画だった。そこで、この半年はあえて自らを多忙へと叩き落し、家以外のことを考えて過ごせるようにしてやったのだ。おかげでずいぶん目の前の用事に追われ、ここまで来ることができた。来月にはいよいよ引越しで、設備についての意思決定、融資や支払いの段取りも大詰めになってきた。順調にいけば、来月の今ごろに越すことになる。つまり、いよいよ目をそらせず、じりじりと待つ一カ月が始まるわけだが、ここにきて、これまでの半年も、さっぱり忘れてなどいなかった、ずっと気にしていたし、やきもきともどかしく待っていたのだと気がついた。待つというのは、たいへんなことだ。笑顔がぎこちなくなるほどに。

それとは別に、家を買うというのは、この名義で活動しだした頃に構想していた家を共同運営するという「アカミミハウス」の断念がいよいよはっきりするということでもあった。そもそもこの数年ルームシェアをためしてみた他人との暮らしでだいぶ懲りてしまってやる気がなかったのだから、じっさいのところ実現へのモチベーションもなくなって久しいのだが、あのころ考えていた、家さえあれば、という切実さは、むしろ日々の支払いだとか、設備上の必要だとか、そういう生活の細々とした合理的判断へとすり替わっている。変わるものだよな、としか思わないのだが、それでも過去の切実さが今では遠いというのはさみしいものでもあるし、あのころの切実は自分から遠くなっただけでなにも古びてはいないということも考える。単に住むところが変わるだけ、家に費やす金の使い方が変わるだけだとも思いつつも、やはりなにか思考のフォームを大きく転換させるべきところにきているとも思う。持たざる者として何かを書くことはもうできない。かといって、保守的になるわけにもいかない。というより、むしろここからやっと恥をしのんで理想を語るべきだとも思う。

国家が痩せ細っていくとき、多くの住民は保守化する。それは当然で、なにか新しいものをという欲求は、おおもとの足場が盤石であるからこそ生まれる余剰であり、自分の立つところが貧相でぐらついていると感じるとき、まず望まれるのは安定である。脱構築も対抗文化も、近代というものが盤石であるという信があったからこそ本気でその打倒を求めることができた。そのような盤石さへの疑いが芽生えてしまったら、自ら率先してその盤石さを信じ込もうという方向へと努力が振り分けられるだろう。バラバラにしている場合じゃない、もっと確からしさを作らなければ、というわけだ。いまの自分の足許が安定しているとは全く思えないけれど、はたから見ればそうなわけで、いまの僕は過去の僕が妬んだようなところに立っている。その苦さを伴ったまま、つまり現在の自分を擁護しないようにして、ものを考え続けたいのだが、できるだろうか。あまり自信はない。

つまり、形而上的にも形而下的にも大きな変化を要請されているわけで、これで疲れないはずがなかった。借金の不安とかがもっと大きいかと思ったがそれは意外なほどなんでもなく、ただただ大きな楽しみを待つ時間の体感の長たらしさと、そのような楽しみを前にどこかひるんでいる自分の小心さとを持て余している。

それはそれとして、冊子の入稿の目処も立ったし、ひとまずほっとする。思わずにこにこしてしまう。これであとは自分の持っている〆切を気にしてさえいればいい。人の〆切を管理して進行していくというのはたいへんだ。僕にとっては途端に労働めくし、けれども原稿やレイアウトが出てくるたびにわくわくもする、なんにせよくたびれることだ。笑顔を心がけて帰宅すると早速、なんだかきょうかわいいね、と奥さんに指摘される。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。