2024.06.19

蛙坂さんや卯ちりさんが言及していた佐藤陽介「私のホラー論!」というスペースをアーカイブで聴いた。実話怪談界隈からフェイクドキュメンタリーブームを読解するという企画。それじたい虚構性をもつ話という語に「実」を冠するナンセンス、あるいはフェイクと銘打たれた文書=実証の形式を用いた遊戯、その対比が面白くならないわけがない。充実した二時間強だった。

おわかりいただけただろうか。違和感を能動的に探すという形で、注意深く見ることを促す形式。ホラーという映像ジャンルは、観客の注視を資源とするがゆえに、能動性を引き出すための手練手管が洗練されてきた場所である。では、文章表現において注意をアフォードする方法とはどんなものか。それはたとえば、このテキストの生成に関わった人物が実在するという手応えであるとされてきた。

書き手と語り手を兼ねた実在を素材として利用する方式を私小説と呼ぶとして、実話怪談とは語り手をべつに存在するものとして置くことで、書き手の聞き手としての性格を際立たせたり、語りの事実性というもの自体のいかがわしさを暴露したりする。嘘か本当かというのは疑似問題で、「お前が本当だと感じてしまう虚構が備えている形式とはなんだ?」ということだけが常に問われている。

巷でいわれる冷笑というのは、自分たちだけが現実的な判断をくだせているというスタンスが立脚するこの「現実」そのものが一種の虚構であるということを看過し、ベタに信じているように見えるところが寒い。文明というのは虚構を虚構と承知の上でもっともらしく真に受けるという態度であって、虚実をぱっきり分けようという態度は垢抜けないものだ。リアルを嘘くさいものとして疑いつつ、複数の虚構に一定のリアリティを感受できるというのが洗練された文明人のありかただと思う。

余談として挟まれた喜多崎親編『怪異を語る』という本の中で幽霊が脚がないのは、幽霊画という平面に発生という運動を表現するために発明された技法が由来なのではないかという指摘があるらしく、面白い。さっそく本を注文する。

面白そうな本はどんどん出てくる。新旧問わず、目についた時が読み時だし買い時だ。『家の哲学』、『非美学』、『非美学への手引き』の三冊は発売日と引越しのバタバタが重なりそうなので、まとめて注文できないか関口さんに相談のメール。本屋lighthouse でのイベントは、引越し直後になる。反動ではちゃめちゃに本を買ってしまいそうである。文芸誌掲載の小説ばかり読んでいると、そうでないものへの欲望がマシマシになる。これはプルーストを読んでいた時もそうだったが、日々のリズムに組み込まれたものを継続的に読み続けるというのは、そうでない傍流でべつの読書をしたいという気分を盛り上げてくれる。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。