出社前に時評を納品。先月で折り返して慣れもしないで毎回手探りであるが、マンネリズムは感じる。それはまず掲載される作品に対して、第二にそして何よりも自分なりに使用する評価法のかわり映えのしなさに対して。ものさしが一元化されているから、作品も似たようなものが増えるのか、その逆なのか、相関の詳細は判断できないけれど、大雑把な趨勢として、書く側も読む側も価値判断の軸がそれぞれ痩せ細り、選択肢じたいも貧しくなっているような気がする。こんなもんか、というのと、こういうのでいいんだよ、というのがあり、こんなのありなのか!という驚きはない。驚きたい。しかし、それはこちらが驚けるだけの準備が足りていないということかもしれない。差異に驚くには自分なりの型が必要で、漫然と読むだけでは一見些細なようで重要な特異さにあっと驚くことさえできないだろうからだ。けれども、いったいどれだけの人がいま小説で驚く準備ができているだろうか? そのような準備の範を示すというほど小説の読み巧者ではない僕は、やはり市井の一読者として、ある種鈍感に、素朴に驚きを待望しつつ読むほかないのではないかと考えている。
労働、ミスが多い。細かいミスにいちいち深刻に傷つくということがなくなり、あら、で反省を中断する身振りを身につけて久しい。これでいいのか、と思わなくもないが、こういうのでいいんだ、と納得するために『会社員の哲学』を書いた。クオリティを上げ過ぎないこと、完璧を追求しないこと、細部に拘泥することをどこかでズラし、意識的に大雑把さを導入する。いやいや、そんなんしなくても充分あなたはガサツでしょうが、むしろ少しは繊細な注意というのをやってみたほうがいいんじゃないの?という疑問はもっともで、それはそうだろうと思うのだが、そのような規範意識からおりて、居直るように諦めることでしかひらけなかった筋というのがあって、その筋をなぞるようにして失いかけたごきげんを取り戻してきた以上、よく気がつく細やかさへの憧れに対して強い警戒があるのも確かなのだ。
段ボールにほとんどの本を詰めてしまったことにより、久しぶりにKindle の読み放題が大活躍で、伊藤潤二ばかり読んでいる。どうも文字だけの本を読む気になれず、大仰な書き込みと安易な説明台詞のアンバランスさに愉快になるくらいがちょうどいい。本が読めないことによりやや調子が悪いが、これだけくたびれているのだから読めなくて当然だとも思う。読むというのは相手のリズムに乗っかって相手の語彙と理論をなるべくそのままに写し取るようにしてすることで、そのように他者の語りに身を委ねるという負荷を、文字だけを手掛かりに引き受ける遊びだ。疲れる。漫画や映画は非言語の情報でリズムや思想を励ましてくれるから好きだ。文字化できる部分の接続がよくわからなくても、別のリズムや感覚をまさぐるようにするだけで楽しくなれる。『チャレンジャーズ』をまた見たい。あれほど楽しさに奉仕するために意味を振り切った映画もなかなかない。ただ楽しいだけ、ということの素晴らしさ。じっさい本だけでもそういうことはできるはずで、そのようなものであれば読めそうだった。しかし疲れている。休みたい。なにもしないで心身を安らがせるような日があるべきだった。しかしもう家にくつろげるスペースはない。どこにだって段ボールがあり、どこにだって段ボールに詰め込むべきタスクがある。着手が早すぎた。
