2024.06.26

午前中は用事がないので出社を午後からにしてたっぷり眠る。慌てずに朝食を摂り、シャワーも浴びたし私用のメールも返した。休養のためにとつい丸一日空けてしまいがちだが、だいたい夕方くらいには暇疲れでぐったりしてしまう。こうやって午前中だけだとか、三時間くらいしっかりゆっくりするというのがちょうどいい塩梅なのかもしれない。

目の前で発され繰り広げられる語りというナラティブはここに「在る」現実という意味でリアルだが、そのときに語られた怪談そのもの、また受け手が怪談にどう恐怖したのかは固有のもの、と捉えられる。一個人によって言語化された怪談と、聞き手が受容した怪談は完全に同じ事物ではないが、「怪談」という形をとったその話に内包され価値を置かれるが、個々の受容者によって可変する恐怖というものは、不可変に在るリアルではないが、現実「性」という意味でのリアリティではないか。語りというメディアによって伝播し、恐怖というリアリティが備わった怪談に触れるということは、それ自体に終わりのない広がりがある。歴史や伝承に纏わる怪談を「現在まで地続き」と具体的に思いを馳せることよりも、今ここで・またいつか・もしくは永遠にないかもしれない話が語られている、という事象そのものに、私は世界とのつながりを感じる。

https://sizu.me/uchili0315/posts/3f223civ7348

モキュメンタリーは恐怖の対象そのものー真実に付随する死や暴力や化け物を主眼に置いていない、というよりも対象(真実)と手段(ドキュメント)の恐怖強度が反転している点に魅力があるのではないか。だからモキュメンタリー作品の多くは、謎という考察の余白をあえて残しているのではないか。多くの作品に触れているわけではないが、そういった印象を強く受ける。

同上

卯ちりさんのこの文書。リアリティ=本当っぽさと戯れる遊びであったはずのモキュメンタリーがそこそこの集客力を得た結果、多くの人にとってリアルの代理であるはずの諸ドキュメントや、それらの形式を規定するメディア自体が直接的なリアル=現実とベタに取り違えられているという事態を暴露することに帰着しているのではないかという指摘として面白く読んだ。

物神化されたメディアは「リアル」であり、もはやリアリティの道具ではない。現代の情報メディアの形式は、無媒介なリアルのように認識されている。だからこそ既存の差別構造を無自覚に再生産するような愚も犯す。広く共有可能なドキュメントとは、つねに現状の記録=追認に過ぎないのだから。

反対に実在する誰かの経験というリアルを人々が口伝てに媒介することによって個人の実感以上のリアリティを付与する実話怪談は、むしろその媒介性を強調され、リアリティの側へと重心を傾けているのかもしれない。

現状の通念からして本当っぽいことをさも本当のことのようにして語るモキュメンタリーと、ある個人にとってだけ本当のことを不特定多数の人々にも本当らしさを感じてもらえるように語り直す実話怪談。前者が人気を獲得するにつれ、結局は一般的な現状追認の心象を利用して悪しき偏見を拡大再生産することしかできないかのようなどん詰まりを見せているような印象がある。具体的な個人のリアルを簒奪しているのは明らかに実話怪談のほうなのだが、社会通念の側ではなくリアルな個人の側に立ち、そのドキュメントとして形式化されるなかでは捨象されがちな固有の生を翻訳し、他者に問うていくという態度が、フェイクドキュメンタリーの閉塞感と比較してしまうとなんだかマシなものに見えてくるという倒錯があるし、そのような倒錯にこそ、僕はなにかしらの面白みを感じている。それと同時に、フェイクドキュメンタリーの危うさにもまた同じくらい期待しているところがある。安易な形式への耽溺ではなく、形式自体を嘲弄するような野蛮さをいつでも楽しみに待っている。

財布に現金がなく、キャッシュカードも忘れたためランチの選択肢が狭まり困った。なんとかなったが、体調に合わない大盛りで苦しんだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。