労働に身が入らずガスや電気の解約手続きやらを進める。次第にタスクが片付いていくのは気分がよく、夢中でぷちぷち潰していく。確実に潰していけるタスクがあると、不確定な仕事、タスクをでっちあげていくところから始めなくてはいけない類の頭の使い方が億劫になる。ただ与えられた用事だけをこなしていきたいという欲望。それは手さえ動かしていれば何も考えずに済むという思考放棄を希求するものであろう。じっさいもう何も考えたくない。そんなところもなくはない。日々、ただ降りかかり、溜まっていくタスクに対処していれば、中長期的な計画や、未来への不安に取り組むことなしに当面の満足というか達成感というか、何かをやった感が得られる。それは面倒なことを考えないで済ますための工夫でもあり、生活の、ほっとけば保守化するという傾向そのものでもある。目先のことに手を動かしていれば、頭を働かせる余地は狭まり、変に心配事を増やしたり、事態をこんがらがらせることもない。ものごとはシンプルに、無心で取り掛かれるタスクになる。それに救われる気持ちもある。
けれども、やはりそれでは生きてゆかれないようにも思う。タスクを片づけるよりも、用事を無駄に増やしていくほうがわくわくする。そういうときもある。散らかして、片づける。両方いる。このような薄い人生訓、生活観のようなものを書き流すことの功罪について考える。書くことはつねに個人の生など追い越してしまうべきであって、それは起点となる私生活をないものとするというのでもなく、この生活を、たとえば神とか宇宙とか量子とか言語とか、スケールの乖離したものへと直結させてしまうような感覚を鍛えていくのがいいというようなことだ。人生や社会では卑近で小さすぎる。それはあまりにもこの生活に似ている。もっと突飛な飛躍や脱線をどのように呼び込むか。そのような回路が貧しくなっていく予感がある。それは加齢なのか、状況の荒廃なのか、うまく見分けはつかないままだ。
