友田とんの『『百年の孤独』を代わりに読む』をはじめて読んだ時のことが忘れられない。あれは本当に世界の読み方がひっくり返るような経験だった。ふだん自分が本を読むときに起こっていることがつぎつぎとまるで手品ショーの舞台裏を見せてもらっているかのようにして起こる。このような可笑しくて不思議な経験は、本を読む誰にでも起こっていることではないのかという親密な感覚が、すっかり見過ごしていたことがとつぜん新鮮に迫り出してくるような驚嘆と共に湧き起こってくる。こんなことが文章表現でやれるのかと僕はひどく驚いたのだ。僕もこのようなことがしたいと思った。と同時に、多くの人に読んでほしい。『『百年の孤独』を代わりに読む』について語り合いたい。そして、この本をスーツケースに詰め込んで行商する友田さんのように、僕も読書の楽しみについてなにか書いて、それを本にして全国を売り歩いてみたいとずっと思い続けてきた。
当時、企業に勤める研究者であった友田とんが日々の労働の傍ら『『百年の孤独』を代わりに読む』の連載を開始したのはガルシア=マルケスが亡くなった二〇一四年の春。足掛け四年の執筆の末、自主制作版『『百年の孤独』を代わりに読む』は、二〇一八年の春に刊行された。僕はこの年、東京流通セターで開催された文学フリマで「代わりに読む」という冗談に遭遇する。頒布のために積み上げられた本と共に陳列された保坂和志『未明の闘争』の背表紙に惹きつけられて、この奇妙な本を発見したのである。さらに六年後の夏、この本は早川書房からハヤカワノンフィクション文庫の一冊として文庫化、一般流通するに至った。その間、僕は明らかに友田とんの作家活動および出版活動に感化され、『失われた時を求めて』という長大な小説を読む日々の日記という体裁で『プルーストを読む生活』という本を作り、それをきっかけにいただいたご縁に寄りかかりながら今も細々と文筆を続けている。なにげない読書の可笑しさを捉える目は、ある小説を誰かの代わりに読み続けるという、一見軽口のようでいて笑い飛ばすにはあまりに真摯な様子の冗談によってひらかれたのだった。今では友田とんは独立し、この真剣極まりない冗談を屋号に掲げたひとり出版社を立ち上げて、「可笑しさで世界をすこしだけ広げる」ような本を次々と世に問うている。
可笑しさで世界を広げるとはどういうことか。それは、この世界に可笑しさを見つける目をつくるということである。note で『『百年の孤独』を代わりに読む』の連載を開始する前から、友田とんははてなブログを不定期で更新していた。そのタイトルはこうだ。「可笑しなことの見つけ方」。この作家はまず目から始まる。すなわち、よく見ること。何気ない風景の中に驚きを見つけ出すこと。その証拠に、『百年の孤独』を読むにあたってまず参照されるのはテレビドラマの記憶である。本からではなく、テレビから始める。不可視の電波にのって各家庭へと届けられる娯楽を見る目が、そのまま小説を読み始める。
友田とんという作家の根幹にテレビっ子という大衆性がある。だからこそ、既存の流通網に馴染んだ老舗出版社が文庫にすることによって『『百年の孤独』を代わりに読む』が町の本屋へと行き渡るのはとても喜ばしいことだ。この嬉しい出来事を記念して、僕も何かを書きたいと思っていた。しかし何を書けばいいのか。なにも思いつかなかった。ただ、嬉しいなあ、とだけ思っていた。これではいけない。とにかく読みだすことから始めるべきだろうと僕は本を手に取った。文庫化に際して書き加えられた「まえがき」を読み、いよいよ本編を読みだした僕に天啓がひらめく。
代わりに見ればいいのだ。
「代わりに読む」試みの火蓋は、あるテレビドラマを召喚することで切って落とされる。そのドラマとは、一九九一年放送のTBSドラマ『それでも家を買いました』である。これには驚かされた。僕は文庫版『『百年の孤独』を代わりに読む』を読みだしたのは、購入した物件の施主チェックに向かう電車の中であったからだ。いま僕が代行するべきことがあるとすれば、それは『百年の孤独』や、『『百年の孤独』を代わりに読む』の再読ではないのかもしれない。いや、再読はする。なぜならどちらも大好きな本だからだ。しかし、ただ読むだけでは足りない。代わりに読むというのでもない。僕はおそらく、代わりに見るべきなのだ。『百年の孤独』や、『『百年の孤独』を代わりに読む』を読んでも、多くの読者は見ずに済ませるであろう『それでも家を買いました』をである。
さて、本編だ。このドラマは、住宅街に浮かび上がる一軒家のイメージ、そこから切り替わって集合住宅の一枚絵をバックに題字が表示されたのち、アップで撮影された田中美佐子の次の台詞で開始する。
「家(うち)買うなんてもう全然。結婚する時はそんなこと考えてもいないもの」
いったい画面に大写しになるこの女性は誰なのか。なぜこんな得意そうに取材を受けているのか。そもそも何の取材なのか。カメラに向かってポーズをとるということは紙媒体の取材なのだろうか。海老名のマンションはいつ出てくるのか。というわけで『『それでも家を買いました』を代わりに見る』を不定期連載で始めます。こんなもの読まないでいいので、ぜひとも『『百年の孤独』を代わりに読む』を求めて本屋さんへと走ってください。
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