朝は八時ぴったりに電話があり、まだiPhoneがおやすみモードなのでもちろん取れない。とはいえ今朝はしっかり七時には起き出して朝食を済ませている。留守電で本日はオンスケだと知る。八時半に搬出開始。口コミや評判を見て、見積もりは比較せず、日通一択でお願いした。ずいぶん割高だと奥さんには呆れられたけれど、じっさいかなり感じよく、手際もよく、一時間半足らずで僕たちの六年半だかそのくらいの痕跡を綺麗さっぱり部屋から持ち去った。ひと足先に奥さんには新居に向かってもらって、僕は正午の鍵の引き渡しまでの一時間以上をがらんとした部屋で過ごした。この部屋の内見の時は、階下のABS卸売センターに魅了されていたし、部屋の広さや設備も申し分なかったから即決した部屋だった。いま眺めてみても広いなと思う。再開発で業務スーパーは閉店し、引越しの準備をしている間にすっかり解体されてしまったし、この数年はエレベーター内にディスプレイが掲示され四六時中広告を流していて鬱陶しくてたまらないので昇降のたびにノイズキャンセリングのイヤホンで耳を塞ぐ労がかかるのも嫌で、3LDK のリビングにしかないクーラーもカビ臭く古びてきているなど、だんだんと気に食わないところも増えてきていた。なにより駅前の風景もなにもかも、随分と様変わりしてきていて、僕らが出る前から町の方がよそよそしくなっていた感がある。だからか、あまり感慨もなく、この数週間の準備がようやく報われる、という安堵ばかりがあった。フローリングに寝転がって『文藝』掲載の小説を読み出す。今月の時評のために読まねばいけないものを、もう一週間ちかくほったらかしである。安藤ホセ。初めて読む作家で、べらぼうに面白く、もっと読みたいと思った。今年に入ってからはじめてくらいの感覚。気がつけば出窓の前のスペースに腰掛けてパンを齧りながら読み耽っていた。最後までは読めず、途中で管理会社の人が来て現地確認のうえあっさり退去完了。そのころにはトラックはすでに新居に到着していて搬入を開始していると奥さんよりSlack がある。電車と徒歩で向かうとちょうど運び終えたところで、お礼だけ伝えておしまい。移動込みで五時間ほど。つまり現地での運搬は合計で三時間弱という素早さだ。屈強な男たちが慎重にものを運ぶ様はなんだかよかった。男らしいまま、その力をケアに傾注させること。運送と接客を要請される引越し業者というのは、そのような可能性に満ちているのかもしれない。呻き声にも似た音をたてながら重量のあるものを持ち上げ、血管を浮き上げた男たちが、こちらがなにかを尋ねると気遣いに満ちた応答をにこやかに返してくる。すごいな、と感心した。
これですっかり引っ越しは済んだと思ったものだが、むしろわれわれにとってこれからが本番なのだと山積みの段ボールを見て気がついた。とにかく箱からものを出していく。手や目に馴染んだ決して格好良くはないものたちが大雑把に配置されると途端に新品の顔をしていた空間はあっけなく生活する家になる。奥さんから声がかかり、きのう挨拶しそびれた近所の方がわざわざ出向いてくださりゴミ出しの仕方などを教えてくれる。洗濯機の取り付けの作業を請け負ってくれた人の感じが好きな雰囲気だった。ものごとの優先順位からして絶対に間違っているのだが、なにかと奥さんを言いくるめて、というか根負けさせて本の開封作業を早めに済ませてしまう。ひとまずざっくりと本を詰めていく。三週間ぶりの背表紙に心が躍る。やあ、君たち、久しぶりだね! 本棚から活字がこちらに浴びせられる。それを深く吸い込んで、ああ、これでまた生活が始まるのだと思える。それまではアドレナリン過多でピリついていた態度もにこにこしだし、それからは穏やかな気持ちで粛々と荷解きを進める。Sさんは今日も作業でいらしていて、並行して設備の調整を進めてくださる。二〇時近くまでおのおの作業して、近所でごはんを済ませ、お風呂を沸かして入る。新しいお風呂はかなりいい感じ。ぽかぽかで、リビング周りを簡単に片付けてお茶を淹れてほっと一息つく。ここでようやく、引っ越してきた実感が湧く。まだまだ梱包資材や段ボールに塗れていて荒れているけれど、休みをとっている今のうちにせめて段ボールは全て開けてしまいたい。新しい動線をつくり、適正な快適さを確保するまでには、まだまだ時間と工夫がいりそうだった。早く寝ようと思いつつ、きょうはその日のうちに書いておきたいと思い書斎スペースで駆け足で日記。すでに寝室から待ちくたびれたようなため息が聞こえてきた気がしたが、くしゃみだったみたいだ。